映画というものは見世物だ。
たいしたことが起こっていないものは、
見世物にはならない。
人はすごくないものの前では通り過ぎるだろう。
ほんとうにすごいことが起こってても、
すごいと思えないものはスルーだ。
すごくなくても、すごいと思えるものは、立ち止まる。
つまり内容じゃなくて、ガワで、すごいかどうかが決まる時がある。
それをやるにはどうすればいいだろうか。
簡単なものはリアクションだ。
本人のものではなく、
他人のリアクションで、これはすごいと思わせることが可能だ。
それを直接見た人が、驚いたり、感動したり、爆笑したり、拍手したりすれば、
それがそうだと思わなくても、その世界ではそのようなものだとわかる、
ということである。
最近は見ないけど、昔のコント番組では、
面白いことをしたときに、観客の笑い声が足されていた。
「ここ面白いですよ、みんな笑ってね」という部分だ。
笑点のような公開収録では、リアル観客が笑うから、
それが「面白いところはここ」の呼び水になるんだけど、
スタジオ収録だとそれがないため、
効果音として笑い声を足すことがよく行われていた。
ドリフの火曜日の収録のやつとかね。
80年代のひょうきん族で僕は見たのだが、
それをやめて、「その場にいるスタッフが思わず笑ってしまう」
という演出に変わったように思う。
それは、「効果音だとリアルじゃなくて、意図を感じるから、
もっとリアルに笑ってしまう」
ということをやろうとしたのだと思う。
なんにせよ、「ここ面白いですよ」という、
「凄い部分です」を示す演出だということだ。
この笑い声がないとき、
人はちゃんと面白さを判定して笑うのだろうか?
その実験はやったことないけど、
他人につられて笑う、ということがよくあるため、
おそらく笑いは減るのではないかと思われる。
たとえば、同じ映画を見るときに、
無観客で自分だけがいるときと、
満場の観客でよく笑う観客がいるときでは、
笑う回数や深い笑いの回数は異なる気がする。
満場の観客で沢山笑ったほうが、
「ああ楽しかった」ってなるような気がする。
感動で泣いちゃうやつも一緒で、
隣のОLが爆泣きなんてしたら、
やっぱりつられて泣いちゃうかもしれない。
韓国では「泣き屋」といって、葬式で泣くサクラを雇うらしい。
悲しみの演出と言えば悪意的だが、
泣くきっかけがない人に、泣くきっかけを与えて、
ちゃんと泣こう、という感情の安定装置だといえば、
やさしさを感じるかもしれない。
さて、
つまりは、
周りの人のリアクションで、
「すごいことが起こっている」ということを表現することが可能である。
もしあなたがドヤ顔ですごいことを書いても、
まったく理解されないようであれば、
周りの人にリアクションをさせればいい、
というのはひとつの解決策である。
バトル漫画やスポーツ漫画で、実況と解説が入ることがある。
キン肉マンを例に挙げれば十分であろう。
「今なにが起こっているのか」
「それがどれくらいすごいことか」
なんてことを言葉にしてしまうことで、
絵のへたくそさをカバーしている、
などとリアルタイムでは揶揄されたものの、
「これをどう見ていいのかわからない」くらいならば、
それがそうである、ということを説明してしまうほうが、
リアクションが取りやすい、ということなのだ。
(そもそも読者は小中学生だし)
観客という他人のリアクションも参考になるよね。
うおおおおと喝采を送っているだけでも、
すごいことをやっている気になるわけだ。
これらを応用してみよう。
たとえば家事をしている奥さんのところに、
急に実況と解説が入り、
突然観客が乱入してきて、
「おおっと奥さんが〇〇をやっているー!
これはすごい!」
「これはなかなか出来ないことですね。
家族への愛情がよく出ています」
「なんと奥さん、これをやって〇年になるそうです。
その積み重ね、なかなか出来ることではありません」
とでもやって、
観客が拍手をし始めて、
応援しはじめ、
ちょっとした失敗に息をのみ、
成功したら拍手喝采でスタンディングオベーションするような、
不条理を描いたあと、
「戦いはいつも誰にも褒められない。
褒められる日をつくろう。
母の日」
なんてCМを、すぐつくることができると思う。
ふつうにやっていることでも、
このように周りのリアクションを変えるだけで、
そのようにみせることができるのだ。
「たいしたことないと思っていたけど、
よく見ると大変なことをしているんだなあ」
なんてことは、周りのリアクションでコントロールできる、
ということである。
仮に、
どんなにすごいことをやったとしても、
観客「……(無反応)」
という一行を書き加えるだけで、
見ている人は、「あれ?たいしたことないのかな」
なんて思ってしまうかもしれない。
つまり、次の行でコントロール出来る、
ということである。
他のパターンはあるだろうか?
「どんなにすごいことをやっているかはわからないが、
数字ですごいと示す」パターンはあるよね。
「〇万部売れた小説」
「全米1位」
「ノーベル賞受賞」
という数字や権威があれば、
それはすごいものだと、内容を見ないで表現できる。
「腕立て2000回毎日やりました」
などの数字を出すだけで、それはすごいとわかる。
「現在の価値でいうと、1千万円」
というと、数字で理解できる。
客観性というのは、「誰にでも伝わる」という意味だ。
数字は嘘をつかない。
ただ、だます奴は数字を使う。
つまり、数字は使える道具ということだ。
これらはオープンの表現で、
クローズの表現も可能だ。
さきほどの例にだしたナレーションは、
「誰も知らないかも知れないが、
私たちだけはその価値を知っていますよ」
という形に使える。
たとえば7歳の子供が、
はじめてスケボーに乗って、
何もせずに10メートル進んだだけの動画があるとしよう。
そこにこういうナレーションが入るわけだ。
「僕らは知っている。これがのちに偉大なるチャンピオンとなった〇〇の、
最初の最長不倒距離だということを。
始まりの一歩は小さい。
しかしそれが大きなものの中にある。
公文学習教室」
みたいにCМをつくるとしよう。
そうすると、7歳の子供がスケボーをしているだけなのに、
それが急にすごいことに見えてくるわけだ。
撮影もぜんぜん大変じゃないし、
もしそれが本人の昔の映像じゃなくても、
「〇〇の逸話に、こういうものがある」
という風に紹介すればOKになってしまう。
ナレーションは、
客観的な状況に、
「僕らだけが知っている秘密」
を足すことが可能だ。
「みんなはこれを見てただの〇〇だというかもしれないが、
実はこれはすごいことの一部なのだ」
ということは、ナレーションで示すことが可能だ。
さらにいうと、ナレーションだけでなく、
事前に他の登場人物がいうことで、
前振りすることが可能だよね。
ということは、ナレーターだけが道具ではないということになる。
工夫はしようがあるわけだ。
単純にその登場人物が、
新聞を見たりテレビや本から情報を得ることで、
これはすごいことだと認識する場面もある。
作中の客観である。
そのことで、これはすごいことだと登場人物に認識させて、
観客に理解させる、
ということも可能だよね。
つまり。
ほんとうにすごいことをやっても、
すごいと認識されないことがある。
たいしたことをやってなくても、
すごいと認識させることができる。
私たちは嘘つきである。
良い方向に嘘を使おう。
2022年11月02日
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