2022年11月02日

すごいことが起こっている

映画というものは見世物だ。
たいしたことが起こっていないものは、
見世物にはならない。
人はすごくないものの前では通り過ぎるだろう。

ほんとうにすごいことが起こってても、
すごいと思えないものはスルーだ。
すごくなくても、すごいと思えるものは、立ち止まる。
つまり内容じゃなくて、ガワで、すごいかどうかが決まる時がある。

それをやるにはどうすればいいだろうか。


簡単なものはリアクションだ。
本人のものではなく、
他人のリアクションで、これはすごいと思わせることが可能だ。

それを直接見た人が、驚いたり、感動したり、爆笑したり、拍手したりすれば、
それがそうだと思わなくても、その世界ではそのようなものだとわかる、
ということである。

最近は見ないけど、昔のコント番組では、
面白いことをしたときに、観客の笑い声が足されていた。
「ここ面白いですよ、みんな笑ってね」という部分だ。

笑点のような公開収録では、リアル観客が笑うから、
それが「面白いところはここ」の呼び水になるんだけど、
スタジオ収録だとそれがないため、
効果音として笑い声を足すことがよく行われていた。
ドリフの火曜日の収録のやつとかね。

80年代のひょうきん族で僕は見たのだが、
それをやめて、「その場にいるスタッフが思わず笑ってしまう」
という演出に変わったように思う。
それは、「効果音だとリアルじゃなくて、意図を感じるから、
もっとリアルに笑ってしまう」
ということをやろうとしたのだと思う。
なんにせよ、「ここ面白いですよ」という、
「凄い部分です」を示す演出だということだ。

この笑い声がないとき、
人はちゃんと面白さを判定して笑うのだろうか?
その実験はやったことないけど、
他人につられて笑う、ということがよくあるため、
おそらく笑いは減るのではないかと思われる。

たとえば、同じ映画を見るときに、
無観客で自分だけがいるときと、
満場の観客でよく笑う観客がいるときでは、
笑う回数や深い笑いの回数は異なる気がする。
満場の観客で沢山笑ったほうが、
「ああ楽しかった」ってなるような気がする。

感動で泣いちゃうやつも一緒で、
隣のОLが爆泣きなんてしたら、
やっぱりつられて泣いちゃうかもしれない。

韓国では「泣き屋」といって、葬式で泣くサクラを雇うらしい。
悲しみの演出と言えば悪意的だが、
泣くきっかけがない人に、泣くきっかけを与えて、
ちゃんと泣こう、という感情の安定装置だといえば、
やさしさを感じるかもしれない。

さて、
つまりは、
周りの人のリアクションで、
「すごいことが起こっている」ということを表現することが可能である。
もしあなたがドヤ顔ですごいことを書いても、
まったく理解されないようであれば、
周りの人にリアクションをさせればいい、
というのはひとつの解決策である。


バトル漫画やスポーツ漫画で、実況と解説が入ることがある。
キン肉マンを例に挙げれば十分であろう。
「今なにが起こっているのか」
「それがどれくらいすごいことか」
なんてことを言葉にしてしまうことで、
絵のへたくそさをカバーしている、
などとリアルタイムでは揶揄されたものの、
「これをどう見ていいのかわからない」くらいならば、
それがそうである、ということを説明してしまうほうが、
リアクションが取りやすい、ということなのだ。
(そもそも読者は小中学生だし)

観客という他人のリアクションも参考になるよね。
うおおおおと喝采を送っているだけでも、
すごいことをやっている気になるわけだ。


これらを応用してみよう。

たとえば家事をしている奥さんのところに、
急に実況と解説が入り、
突然観客が乱入してきて、
「おおっと奥さんが〇〇をやっているー!
これはすごい!」
「これはなかなか出来ないことですね。
家族への愛情がよく出ています」
「なんと奥さん、これをやって〇年になるそうです。
その積み重ね、なかなか出来ることではありません」
とでもやって、
観客が拍手をし始めて、
応援しはじめ、
ちょっとした失敗に息をのみ、
成功したら拍手喝采でスタンディングオベーションするような、
不条理を描いたあと、
「戦いはいつも誰にも褒められない。
褒められる日をつくろう。
母の日」
なんてCМを、すぐつくることができると思う。

ふつうにやっていることでも、
このように周りのリアクションを変えるだけで、
そのようにみせることができるのだ。
「たいしたことないと思っていたけど、
よく見ると大変なことをしているんだなあ」
なんてことは、周りのリアクションでコントロールできる、
ということである。

仮に、
どんなにすごいことをやったとしても、
観客「……(無反応)」
という一行を書き加えるだけで、
見ている人は、「あれ?たいしたことないのかな」
なんて思ってしまうかもしれない。
つまり、次の行でコントロール出来る、
ということである。


他のパターンはあるだろうか?
「どんなにすごいことをやっているかはわからないが、
数字ですごいと示す」パターンはあるよね。

「〇万部売れた小説」
「全米1位」
「ノーベル賞受賞」
という数字や権威があれば、
それはすごいものだと、内容を見ないで表現できる。
「腕立て2000回毎日やりました」
などの数字を出すだけで、それはすごいとわかる。
「現在の価値でいうと、1千万円」
というと、数字で理解できる。

客観性というのは、「誰にでも伝わる」という意味だ。
数字は嘘をつかない。
ただ、だます奴は数字を使う。

つまり、数字は使える道具ということだ。


これらはオープンの表現で、
クローズの表現も可能だ。
さきほどの例にだしたナレーションは、
「誰も知らないかも知れないが、
私たちだけはその価値を知っていますよ」
という形に使える。

たとえば7歳の子供が、
はじめてスケボーに乗って、
何もせずに10メートル進んだだけの動画があるとしよう。
そこにこういうナレーションが入るわけだ。
「僕らは知っている。これがのちに偉大なるチャンピオンとなった〇〇の、
最初の最長不倒距離だということを。
始まりの一歩は小さい。
しかしそれが大きなものの中にある。
公文学習教室」
みたいにCМをつくるとしよう。

そうすると、7歳の子供がスケボーをしているだけなのに、
それが急にすごいことに見えてくるわけだ。
撮影もぜんぜん大変じゃないし、
もしそれが本人の昔の映像じゃなくても、
「〇〇の逸話に、こういうものがある」
という風に紹介すればOKになってしまう。

ナレーションは、
客観的な状況に、
「僕らだけが知っている秘密」
を足すことが可能だ。
「みんなはこれを見てただの〇〇だというかもしれないが、
実はこれはすごいことの一部なのだ」
ということは、ナレーションで示すことが可能だ。

さらにいうと、ナレーションだけでなく、
事前に他の登場人物がいうことで、
前振りすることが可能だよね。
ということは、ナレーターだけが道具ではないということになる。
工夫はしようがあるわけだ。
単純にその登場人物が、
新聞を見たりテレビや本から情報を得ることで、
これはすごいことだと認識する場面もある。
作中の客観である。
そのことで、これはすごいことだと登場人物に認識させて、
観客に理解させる、
ということも可能だよね。


つまり。

ほんとうにすごいことをやっても、
すごいと認識されないことがある。
たいしたことをやってなくても、
すごいと認識させることができる。

私たちは嘘つきである。
良い方向に嘘を使おう。
posted by おおおかとしひこ at 01:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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