2022年10月15日

「今は昔」ってすごい文法だよな

平安時代の書物に説話集というのがあって、
当時見聞きした話を集めたものがある。
新聞ともいえるし、記録集でもあるし、
噂話を集めた下世話なもの集だったかもしれない。

その有名な書き出しが、「今は昔」だ。
その視点について。


「今となっては昔のことだが」
と訳すのが定番だそうだが、
僕は古典に触れた時に、
この現代語訳が理解できなかった。

「今は」のどこに、
「今となっては」の意味があるのか、
まったく不明だったからだ。

「今となっては昔のことだが」の訳は、
意訳であり逐語訳ではない、
のようなことを当時の澤田先生が教えてくれた。

正確に言えば、
「物語上の『今』は、
現代の我々から見て昔のことである」
だという話を聞き、
それならば「今は昔」という5音に入る、
と理解した記憶がある。

その視点の移動を、
たった5音でやる日本語を、
逆にすごいな、とも思ったんだよね。


ウルトラQの前説は、
この「今は昔」をベースにしていると考えられる。
「これから30分、
あなたの目はあなたの体を離れて、
この不思議な時間の中に入っていくのです」

「目が体を離れる」という不思議さが斬新であったが、
観客の物語の体験であるところの、
物語内の「現在」とは、
現実の今現在とは、違うところなのですよ、
と言っている点では、
「今は昔」と同じ視点の移動の仕方なんだよね。

「今は昔」以外に、
「今は未来」とか、
「今は今」とかの用法は存在したのだろうか。

僕は古典に詳しくないため、
あったが慣用的なものしか残ってないのか、
それともはなからそんなものはなく、
「物語というものは過去を描くものである」
というお約束があったのかは、
わからない。


伝統的に、人類の語ってきた物語は、
語られる時よりも過去の話をする。
小説が過去形を取るのはその伝統である。

小説の語り手とは、
その事件を見聞きしてきた本人であり、
「私に起こったあの過去の出来事を、
今から語ろう」というのが小説の基本形式だ。

だから現在形がメインでは書かれない。

ところが脚本は現在形で書く。
過去形を使わない。

小説が「今は昔」であることを前提としているならば、
脚本、映像というものは「今は昔」かどうかは知らないが、
「今」である。
現在との時制の関係はない。

もちろん、19世紀ヨーロッパとか、1192年鎌倉とか、
遠い遠い未来の遠い遠い銀河で、とか、
時制を明示することはあれど、
観客の視点はつねに「今」であることに注意されたい。

伝統的な物語は、
臨場感あふれたとしても、
それは昔のことであるというエクスキューズ付きなのに対して、
映画は今の方を取った感じだ。

シナリオが現在形で書かれるのには、
このような時間感覚の差異があるのである。


「今は昔」には、時制と視点が二つあり、
これから語られる話の中に、
今という感覚で入ってください、
という意味である。

映画はそのような構造はない。
はい今。次今。
のように、いまこの空間の中で起こっていることを、
ライブカメラのように映し出している、
というていである。

どんなに昔であろうがそれはあとで考えてね、
今は今なのだ、というのが基本スタンスだ。
そこで「昔」「未来」といえば、
作中の今から相対的に、という意味であろう。


小説は、つまり広義の時代劇である。
過去にあったことだと嘘をついて、
自分の描きたい話を持ってくるわけだ。

映画は、ライブカメラという嘘をついて、
描きたい話を持ってくるわけである。

小説の地の文は、
作中から見て未来である我々現代人の、
考察が入る。

映画はそうではない。
今起こっていることを、
リアルタイムで興奮するだけだ。

地の文は冷静だが、
ト書きは興奮している。

地の文はこの先どうなるかを知っているはずだ。
ト書きはこの先どうなるかを、
知らないように書くべきだ。


「今は昔」という視点の移動は、
伝統的な物語形式に比べて、
映画は変化している、と考える材料になるぞ。
posted by おおおかとしひこ at 02:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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