平安時代の書物に説話集というのがあって、
当時見聞きした話を集めたものがある。
新聞ともいえるし、記録集でもあるし、
噂話を集めた下世話なもの集だったかもしれない。
その有名な書き出しが、「今は昔」だ。
その視点について。
「今となっては昔のことだが」
と訳すのが定番だそうだが、
僕は古典に触れた時に、
この現代語訳が理解できなかった。
「今は」のどこに、
「今となっては」の意味があるのか、
まったく不明だったからだ。
「今となっては昔のことだが」の訳は、
意訳であり逐語訳ではない、
のようなことを当時の澤田先生が教えてくれた。
正確に言えば、
「物語上の『今』は、
現代の我々から見て昔のことである」
だという話を聞き、
それならば「今は昔」という5音に入る、
と理解した記憶がある。
その視点の移動を、
たった5音でやる日本語を、
逆にすごいな、とも思ったんだよね。
ウルトラQの前説は、
この「今は昔」をベースにしていると考えられる。
「これから30分、
あなたの目はあなたの体を離れて、
この不思議な時間の中に入っていくのです」
「目が体を離れる」という不思議さが斬新であったが、
観客の物語の体験であるところの、
物語内の「現在」とは、
現実の今現在とは、違うところなのですよ、
と言っている点では、
「今は昔」と同じ視点の移動の仕方なんだよね。
「今は昔」以外に、
「今は未来」とか、
「今は今」とかの用法は存在したのだろうか。
僕は古典に詳しくないため、
あったが慣用的なものしか残ってないのか、
それともはなからそんなものはなく、
「物語というものは過去を描くものである」
というお約束があったのかは、
わからない。
伝統的に、人類の語ってきた物語は、
語られる時よりも過去の話をする。
小説が過去形を取るのはその伝統である。
小説の語り手とは、
その事件を見聞きしてきた本人であり、
「私に起こったあの過去の出来事を、
今から語ろう」というのが小説の基本形式だ。
だから現在形がメインでは書かれない。
ところが脚本は現在形で書く。
過去形を使わない。
小説が「今は昔」であることを前提としているならば、
脚本、映像というものは「今は昔」かどうかは知らないが、
「今」である。
現在との時制の関係はない。
もちろん、19世紀ヨーロッパとか、1192年鎌倉とか、
遠い遠い未来の遠い遠い銀河で、とか、
時制を明示することはあれど、
観客の視点はつねに「今」であることに注意されたい。
伝統的な物語は、
臨場感あふれたとしても、
それは昔のことであるというエクスキューズ付きなのに対して、
映画は今の方を取った感じだ。
シナリオが現在形で書かれるのには、
このような時間感覚の差異があるのである。
「今は昔」には、時制と視点が二つあり、
これから語られる話の中に、
今という感覚で入ってください、
という意味である。
映画はそのような構造はない。
はい今。次今。
のように、いまこの空間の中で起こっていることを、
ライブカメラのように映し出している、
というていである。
どんなに昔であろうがそれはあとで考えてね、
今は今なのだ、というのが基本スタンスだ。
そこで「昔」「未来」といえば、
作中の今から相対的に、という意味であろう。
小説は、つまり広義の時代劇である。
過去にあったことだと嘘をついて、
自分の描きたい話を持ってくるわけだ。
映画は、ライブカメラという嘘をついて、
描きたい話を持ってくるわけである。
小説の地の文は、
作中から見て未来である我々現代人の、
考察が入る。
映画はそうではない。
今起こっていることを、
リアルタイムで興奮するだけだ。
地の文は冷静だが、
ト書きは興奮している。
地の文はこの先どうなるかを知っているはずだ。
ト書きはこの先どうなるかを、
知らないように書くべきだ。
「今は昔」という視点の移動は、
伝統的な物語形式に比べて、
映画は変化している、と考える材料になるぞ。
2022年10月15日
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