物語はある種の将棋だ。
主人公サイドと敵サイドの駆け引きがあり、
シーソーゲームを展開するわけである。
将棋では、詰みという要素がある。
どこでそれが行われるのが理想だろう?
いつまでも詰まないことをまず考えよう。
だとすると、
主人公の勝利は偶然の勝利のようになってしまい、
これまで積み上げてきたことの勝利にはならない。
なんだ、運を引いただけか、
となってしまい、
納得性は薄いだろう。
人は勝利に理由を見出したい生き物である。
「あきらめなかったから勝った」とか、
「ここをこう読んでいたのだ」とかがあるから、
成程、と腑に落ちるのだ。
それが、「いや、運ゲーで勝っただけですよ」だったら、
あんまり面白くないだろう。
お前たまに「クライマックスはじゃんけんでも面白くなる」いうてるやん、
と突っ込める人は、
わりとここを読みこんだ人だろうね。
反論するのは簡単で、
「そういう1/2の運ゲーに持ち込んだまで」が、
面白いことが重要なのだ。
つまりストーリー開始当初は、
1/10とかそれ以下だったものが、
これまでの展開によって、
ついに1/2まで上がって来て、
あとは勝負、ということになれば、
これは面白くなるわけ。
それだけで相手にとっては「詰み」の状況に近い。
9/10の勝利を1/2まで下げられて、
勝負の場に引きずられるならば、
それは戦略的敗北だからね。
ここまでやられたなら、まあ運的には大体勝てないよね。
勝負の神様は見放すに決まっている。
運ゲーではない、
確実な詰みにもっていくには、
それなりの構築が必要で、
それには脚本力がいるだろう。
将棋の対戦をつくるような、
現実を舞台にした将棋の棋譜をつくるような、
行為をするわけだ。
で、
ストーリー序盤で詰んだら面白くないよね。
あとは作業になってしまう。
だから終盤ギリで、
詰んだ、という状況にするのが常套だろうか。
あるいは逆に、
早々に主人公側が詰みになって敗北してしまうが、
起死回生の一手で、
詰み状況からの逆転があると、
盛り上がるだろうね。
ていうか、そのポイントがターニングポイントになるわけだ。
一見敗北からのリバーサルポイントになるわけだ。
「詰み」は、
たいていルール上の制約から生まれる。
「詰み」の状況を崩すには、
ルール外の戦いをする必要があるわけ。
それはスポーツだと許されないが、
現実世界だとあり得るわけだ。
試合の前に下剤入りのジュースを飲ませて勝っても、
ずるいけどアリなわけだ。
まあ、あとはせこくないとか、
道義上どうなんだとか、
そういうことを選びながら、
各自の選択肢をつくっていけばいいわけである。
ストーリーはつまりゲームである。
ふつうのゲームでは死なないが、
映画のゲームは死を賭けている。
だから面白いのだ。
だから、絶対的な状況の「詰み」は、
将棋よりも面白くなるわけだね。
相手を詰ませることが面白いだろうか?
こちらが詰んでしまったときに、
逆転することが面白いだろうか?
それはストーリーによるだろう。
「架空の棋譜を考えている」というつもりになって、
脚本を構築すると面白いぞ。
僕は将棋はへぼ将棋だけど、
昔将棋を強くなる方法で、
「自分と相手の一人二役をする将棋」
というのをやってみて、
非常に興奮したことを覚えている。
向こうから見たこちら、
こちらから見た向こうがターンごとに入れ替わり、
ものごとの相対的な見方をそれで習得したような記憶があるね。
やり方は簡単で、
一手ごとに相手の席に座ればいいだけだ。
最初はそうすることで、
物理的な視点移動で、立場が移動することを実感しながら打つことが出来る。
慣れてきたら視点を物理的に移動しなくて済むようになる。
一人二役将棋というのは、
どこかでやるべきトレーニングかもしれない。
まあ僕はそこまで将棋に入れ込まなかったが、
この体験は、
いまでもストーリーを書くときに、
頭の片隅に入っていることだ。
将棋はマジで「詰み」があるが、
ストーリーではいかようにも逆転手段がある。
それをノー伏線でやってご都合になるか、
伏線があって、なるほどと思わせられるかも、
筆力が出る部分だろう。
相手を詰ませる。
向こうもこちらを詰ませる。
詰みの条件はなんだ。
それらを考えながら、
登場人物は動いているわけだ。
2022年11月06日
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