人間の法則というか、本当のところというか。
主人公サイドでもよい。
敵方でもよい。
他の誰かでもよい。
常識では考えられないような、
ひどい判断や決断をすることがある。
それは追い詰められているからだ。
つまり、追い詰めていけば、
そのキャラクターはとんでもない判断をして、
暴走して迷走することがあるわけだ。
ああ、それはよくわかる、
というような、
追い詰められた状況をつくってみよう。
そんな状況ならば、正常な判断も出来ないわな、
というような状況と誤った判断をつくってみよう。
こういう風に追い詰められたからこそ、
こうしたんだなあ、という「分り」をつくってみよう。
それが人間観察というものだ。
追い詰められた時の判断というものは、
他人への命令となって出てくるだろうか。
それとも行動だろうか。
ただの暴言としてだろうか。
なんでもよくて、
それがストーリーを動かすターニングポイントになっていればいいのだ。
カフェで子供と母親とかを観察していると、
急に母親が切れだすことがたまにある。
なんか追い詰められているんだな、
と思うことにしている。
余裕がないとき、人は人にやさしくできない。
人につらく当たるのは、追い詰められているときである。
普段穏やかな人だって、
追い詰められたら犯罪を犯すことだってある。
ずっとプレッシャーが与えられている場にいたら、
毒を吐くことも他人に当たることもある。
それは表裏がある人かもしれないし、
その人の本性かもしれない。
あるいは、
本性でない、単純に追い詰められた心理かもしれない。
あるいは、
錯乱かもしれない。
それで誤って、どんどん転落していくこともある。
他人を追い詰めて、その他人が間違いを犯すこともある。
主人公サイドでもいいし、
主人公を追い詰める他人でもいいし、
敵がそうやって転落していくのもある。
どういうときに人は追い詰められて、
どういうリアクションをしてしまうのか。
余裕がないとき、人はどうなってしまうのか。
そういうことを普段観察していると、
物語のヒントになることがある。
逆に、誰かを追い詰めるストーリーすら書けるわけ。
ていうか、人生のすべては物語のヒントである。
観察し放題ではないか。
2022年11月07日
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