2022年11月01日

【薙刀式】機械計算配列への不審

僕はどうも機械計算配列が好きになれない。

人工知能に感じる漠然とした不安もあるんだろうけど、
それよりも思うのは、
「AとBを交換した方が打ちやすいのでは?」に対して、
「いやこういう理由でこっちの方がいいんですよ」
という納得が、誰からも与えられないことかな。


機械計算配列の最初である花配列の、
最終候補群から、
一番いいものをチョイスするのを見た時に、
「なぜこれが最上といえるのだろう?」
が納得できなかった。

最もスコアが高かったからといって、
その評価関数が妥当かどうか、
全然分からない。
ゲームの評価ですら何人ものレビュワーでクロスレビューするんだから、
評価関数が一つって貧弱じゃないかと思ったんだよね。

そもそも配列の評価って一律の数値評価ができるものか?
という大前提があって、
出来ないけど便宜上やってみよう、
という試みが機械計算配列だとは思う。
そうしないと終わりも見えないしね。

手でやってもエンドゲームが見えないものが、
機械ならできるのでは?
という実験だったのかもしれない。

すくなくとも複数の評価関数を与えて、
別々の基準でいくつかの尖ったものや、
バランス型などを見出した上で、
「これが良さそう」と人間が判断すれば、
まだ納得感があったのかも知れない。
我々はただよくわからない神のものを、ははーと受け取る程度には、
馬鹿ではないと思う。

で、
計算配列を見た時に、
「これをこうした方が良いのでは?」
と思ったとしても、
誰にも聞けないところが厄介だ。

人間の手ごねならば、
「いやそれにはこういう理由がありまして」
なんて議論ができて、
なるほどそうなのか、深いところまで考えられている、
などと思ったり、
その手があったか、それは考えてなかった、
があったりして、
より改良のチャンスになるはずだ。

だけど機械計算配列は、
それをそう変えたらどうなるか分かりません、
ただスコアは計算できて、○○です、
までしか言えなさそうなんだよね。
そのスコアの妥当性は置いといたとしても、
どっちがいいんだという議論ができない。

議論は決着や喧嘩が目的ではない。
「その考え方があるのか」を発見する行為だ。

機械計算配列はその議論の機会を奪う。
思考の結果ではなく、神託だからね。
配列作りの新しい評価法や、新しい観点にたどり着けないわけだ。


だから機械計算配列は、
何も考えず受け入れるか、受け入れないかの二択しかない。
人類を幸福にする「考え方」を運んでこないんだよな。

(花配列がもたらした「考え方」は、
中指前置シフトというアイデアの方で、
配字のほうではなかった)



機械計算配列への不審で、
さらに大きなものが僕にはあって、
「構造が読めない」ことなんだよね。

配列作りを長いことやってると、
その配列のアイデンティティになるような、
骨格があることがわかる。
これはここから外せないような、
中心となるカナがあり、
30キーと少しの範囲にそれが張り巡らされていて、
枝を張っているような感じになってるんだよね。

実は配列作りのほんの初期、
完成までの期間の1/100くらいで、
その骨格って定まると思う。

配列作りのほとんどの時間は、
枝葉のマイナーカナいじりのような気がする。
細かい手触りが納得しないから、
滑らかに全部がいくようにテストするわけだ。

つまり骨格が先にあり、攻めであり、
枝葉は後付けで、抑えでしかない。

手ごねの、どんな配列でもこれがあると思う。


配列を使う時、
この骨格がはっきりしていて、
分かりやすいほうが、
納得を持って使いやすいと思う。

先日の話と通じるけど、
「自分の使う道具がどうやって出来てるか、
把握したい」からだ。

たとえば新下駄はそれが整理されていて、
ホームキーに「ん」「う」「い」が来ている理由が、
明確に統計頻度であることが明示されているし、
IOの拗音同時押しからの「う」へのアルペジオなどは、
新下駄のメイン骨格をなしていると思う。

逆に親指シフトでは、
ホームキーFJに「け」「と」がきている理由がよく分からない。
ホームポジションの起点という骨格上大事なところが、
日本語の骨格と関係ないのだ。
一方、外側指に「う」「い」「ん」の三大頻出カナや、
句読点を置くなど、
「親指と外側キーが骨格で、あとは枝葉」ということが読み取れる。
うーむ、いまいち美しくない雑多だなと、
読み取った時点で判断できる。

薙刀式であれば、
右手のアルペジオに、「ある」「ない」「する」があり、
左手のFに「か」があって、FJ同時で「が」という主格になり、
BSがUにあり、左手にもアルペジオがあり…
みたいな骨格があり、
なるほどそれは信用に足る、と思う人は使えば良いわけだ。


計算配列は、そういう風な構造を読み取れない。

なんか知らんけどこうなった、
ばかりの集大成で、
確信をもって使えない気がする。

AIへの不審ではないと思いつつも、
根本的には同じものかも。
「それがそのようになっている構造を説明できない」
ことへの不審だね。

なんか知らんけどこうなったものは、
なんか知らんけど壊れて動かなくなる。
二度と再現できない。

薙刀式は、おそらく骨格と基本となる考え方さえあれば、
機械でも人間でも、
そう変わらない結論のものを作れるのではないかと思う。
逆にいうと、その骨格こそがその配列のキモで、
アイデンティティなわけだ。
つまり機械計算配列にはアイデンティティが見出せない。

花配列作成時に、
ナンバーで配列を管理していたあの感じ。
「花」と名前をつけてようやくアイデンティティを得るが、
配列そのものにアイデンティティがない感じ。



AI研究そのものが、
「機械にはできない、人間の本質を発見すること」
でもある、
と僕は思っていて、
だから学生時代それを専攻にしようと思ったんだけど、
機械計算配列は、
人間のつくる配列の本質は骨格である、
と言っているようなものかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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