殺し合う話が一番面白い。
それはいい見世物だからだ。
人が一番怖いのはなんだろうか。死ぬことだろう。
だから死をかけることが一番見世物として面白い。
そしてストーリーとはコンフリクトであった。
だから、死を賭けるコンフリクトが、
一番見世物として面白い。
ストーリーの原型を考えると、
その部族に伝わる、
敵との戦いの勝利譚であったように思う。
神がこの世界をつくったという神話が第一話にあるとして、
次に来るのは、
その世界でどういう殺し合いをしたか、
ということだと思う。
それが一番興奮するから、
人間という民族は、こうして生き延びてきたのだろう。
ストーリーとは、
その原初の乱暴さ、恐怖、死を超えるほどの戦い、
みたいなことを持っているべきだと思う。
近代は、なるべくそこから離れてきた。
危険で死ぬからだ。
その原始的なものから安全に逃げることが、
文明といっても過言ではない。
だけど、その安心している籠の中では、
原始の蛮勇の面白さはない。
だから、それを欲する。
それが見世物の正体である。
つまり、
見世物とは、安全なところから見る、
原始的な殺し合いである。
ローマ時代から何も変わっていないと僕は思っている。
その殺し合いが、
剣で切りあうだけでなく、
銃で撃ちあうだけでなく、
社会的に抹殺するとか、
ここらへんで生きていけないようにしてやるとか、
正義で叩きのめすとか、
そういうものに変わってきているだけの話だ。
「ダーティーハリー」は、
凶悪犯を射殺する外道刑事の話である。
安全で法を順守する警察ではない。
凶悪犯はそんなこと言ってられないからだ。
そのようにして蛮勇の舞台を整えてから、
刑事が凶悪犯をバンバン撃ち殺す映画である。
これは見世物であり、リアルの話ではない。
だから受けた。
リアルにそんな警官がいたら一発で首だが、
もしそんな凶悪犯がいたら、
法の順守では警官たちが守れない、
正当防衛である、と正義を与えることで、
殺し合いに理屈を与えて、
あとは見世物になるわけだ。
これが見世物の本質である。
要は殺し合いがみたいのだ。
だがただ殺し合うと文明近代社会ではないから、
この文明近代社会においても、
殺し合うほどの理由を、
我々は創作しなければならないのだ。
単純には、
ひどい悪をつくればよい。
それをぎゃふんといわせる正義は、
胸をすくようなものになるだろう。
殺すのはやりすぎ、なのか、殺してすっきりなのかは、物語によるだろう。
だけどみんな殺してすっきりしたいと思っているのはたしかだ。
わざわざ言わないけど、心の奥底では、そのようなものを求めているのだ。
いくら善人のふりをしようが、清廉潔白な聖人のような顔をしてようが、
剣闘士に喜ぶローマ市民と、基本的には同じである。
文明の顔をしているような観客を、
いかに野蛮な殺し合いの見世物にひきこむ、
理由を見つけられるか、
ということが物語作家の一番の仕事なのだ。
正義はひとつの理屈だ。
正当防衛もそうだろう。
恨みや復讐もあるかもしれない。
単純な競争、サバイバルもあるかもしれない。
どのようなものを用意する?
物語はコンフリクトである。
コンフリクトのない物語は、
おそらく見世物にならない。
なぜなら見世物の本質は、死を賭けて殺し合う二人だからである。
そこに筋の通っている戦う理由さえあれば、
それは見世物として成立するのだ。
物理的に殺し合わなくてもいい。
恋のライバルから彼女を奪う話でも、
そこに正当な理由があれば、
戦いになる。
ライバルが敗れればある意味死ぬわけで、
主人公が敗れればある意味死ぬわけで、
その死を賭けて戦うわけだ。
そうじゃないと見世物としては面白くないわけだね。
つまり、
死を賭けて戦う剣闘士と、
あなたのストーリーはくらべられる。
どっちが面白いか?
どっちが必死で、
どっちが感情移入出来て、
どっちがすさまじいバトルになるか?
あなたのつくっているものは、
見世物の台本である。
面白くなければならない。
目の前で男たちが血みどろで剣を刺してとどめをさすものよりも、
ものすごくて、真に迫って、夢中になれなければならない。
ローマ市民は、
剣闘士とあなたの映画、どちらを見に来るだろう?
闘技場の隣に映画館があると想像したまえ。
どちらも同じ料金ならば?
2022年11月19日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック