針の穴を通すあのやり方…
こうとしか考えられない絶妙な展開…
最適解がこれだ!…
全ては計算されていた…
そういうものに人は憧れる。
でもほとんどの場合はそうはいかない。
僕はまず「そんな数学みたいにカッチリいかない」
と考える所からスタートするべきだと考える。
つまり、「別解はいくらでもある」と考える。
将棋を例に取ろう。
藤井聡太は終盤の詰みの見え筋が恐ろしく早いそうだ。
もともと詰め将棋が大好きで、
自分でもいくつも詰め将棋を作ってる人らしい。
しかし当然だけど、
最初からそこへのルートが見えているわけではない。
中盤でも見えていないだろう。
将棋といえば最善手を打ち続けるイメージがあるが、
中盤で最善手もくそもない。
最近はAIでスコアを出してくるけど、
それだって何が最善かを分かってるわけではない。
(藤井聡太が指した手をAIが悪手評価をしたが、
何分も演算回したらやっぱいい手だった、
ということは何回もあるそうだ)
じゃあいつ勝ち筋を見つけるかというと、
どこかで「詰み」に出会うそうだ。
その詰みのルートが見えた瞬間、
あとは最善手で何手もやり、確定した未来へ進むのみらしい。
たしかにそこは、
「計算され尽くされた最善手の世界」であろうが、
その前は、そうではないということ。
その詰み筋に向けて、
向かっているというカンのようなものはあるものの、
ゴールイメージが明確なわけではないらしい。
逆にいうと、
あっちでもない、こっちでもないと彷徨っているうちに、
出口を見つけることに近いらしい。
もちろん、中盤での小勝利は重要だが、
詰められなければ勝負の意味がない。
だからより「出口に出会う」ほうを優先して探索するらしい。
僕は、
ストーリーの中盤はこれに似ていると考えている。
ああでもないこうでもないと、
色々悩み、迷うこと自体を、描けば良いと。
そこは最善手による詰将棋ではなく、
探索の過程にすぎないと。
そしていつか「見えた」になったら、
突っ走ればいいのだと。
経験上、ミッドポイントを過ぎたとしても、
全然見えていないことがある。
第二ターニングポイントでは、
さすがにその先は見えている。
じゃあその間のどこかで「見えた」になり、
そこからようやく計算され尽くした、
最善手の応酬に突入するわけだ。
逆にいえば、それ以前では見えていない。
作者がストーリーに迷い、
書けなくなるのは当然だろう。
なにせ詰めが見えていないのだ。
プロットを事前に書いていたとしても、
全ての場面が前もって書かれているわけではないため、
この「見えた」にたどり着く前は、
見えていないことだらけだ。
だから、
とりあえずここまで辿り着け、
という小目標に、
第一ターニングポイント、第一ピンチポイント、
ミッドポイント、第二ピンチポイント、
第二ターニングポイントが、
15分置きにあるに過ぎない。
だけどそこにたどり着いたからといって、
完璧に計算されたストーリーを書いているわけではないのだ。
だってまだ詰め筋が見えてないんだからね。
中盤はだから、
「見えた」にたどり着くまでの苦闘である、
とも言えると思う。
それは、唯一解だろうか?
というのが本題だ。
「これしかあり得ない」
「最高の」
なんてのは賛辞としてはあり得るが、
それが本当にそうかは、
別解をたくさん作り、検討しないことには判断できない。
「え、こうした方がいいんじゃない?」は、
すぐに見つかるか、見つからないかは、
わからない。
だから、
別解をたくさんつくるんだよ。
ああした方がいいか、こうした方がいいか、
をたくさん作らないと、
それが最高解かどうか、
自分で確信を持てないよね。
そして確信を持てないものは、自信を持って勧められない。
少なくとも、最終稿は、
「できる限りは全てやった、
現状の最高解」であるべきだ。
「しまったああすればよかった」があるべきではないよね。
で、
詰め方すら、一通りしかないわけじゃないと思うんだよね。
ラストシーンや解決の仕方は、別解がありえると思う。
それは将棋もそうだと思うのだ。
勝ち筋は一つしかないのか、ということだ。
たまたまその詰みが見えただけで、
隣には別の詰みがあったかも知れないし、
その隣にはまた別のもっと短期的に終わる勝ち筋があったかも知れない。
ただ、見えなかったから気づかなかっただけで。
だから、
ラストへの繋がり方も、
ラストそのものも、
僕は別解があると考えている。
中盤のどこかで出会えればそこに行けるだけだと。
そして、そこへのたどり着き方も、
別解が沢山あるだろうと。
ストーリーが難しいのは、
実はここだと思っている。
別解が実はたくさんあるのに、
現実に書かれたものは一本線であるからね。
じゃあ複数のパラレルワールドを同時進行させる?
「あの時右に行った世界と左に行った世界」
が同時進行する映画もあったよね。
そういうやり方があってもいいと思うけど、
あの手のジャンルを見て思うのは、
「一本の面白い話が見たい」なんだよね。
つまり、
「面白い話」は別解がたくさんある。
どこで詰み筋が見えてもいいし、
その詰め方は沢山ある。
僕のイメージはこんなかんじ。
複数のエンディングがあり得て、
それらが前方に手を伸ばしている。
ファーストシーンから始まったストーリーが、
進行に応じて、複数のパターンの手を伸ばしている。
その、複数の手同士がつながったところが、
ひとつの解であると。
複数の手同士は、他とも繋がるかもしれない。
繋がるポイントはそれより前かも後ろかも知れない。
とにかく、
ファーストとラストが一本線になったものが、
ひとつの解であると。
将棋は初期状態は常に同じだが、
ストーリーは初期状態は同じものはひとつもない。
だから余計に難しい。
ファーストとラストを結び、詰みになるものを、
見つけられるかということが。
仮に、
ミッドポイント以降全部最適解だとしよう。
じゃあそこにどうやって辿り着けるのかを、
すぐに探せるかというとそうでもないと思う。
必要な条件をすべて揃えてから、
そこに入らないといけないからね。
極端に、第二シーン以降は確定だったら?
ファーストシーンで全てを整えないといけないから、
難易度はかなり上がると思う。
つまり、
どうやっても難しいし、
どうやっても別解はありえるんだよ。
その中でベストを選べばいいから、
まずは一本、線をつなごう。
それには、
さまようことだと思うんだよな。
つまり出港した船は、
つねにさまよっているのさ。
幸運にも詰め筋を見つけられたら、ゴールに辿り着ける。
詰め筋が見えていないのは、露頭に迷う。
それだけのことだ。
中盤が苦しい理由は、
あなたが勝ち筋が見えていない苦しさだ。
それを知ろう。
そして、別解はいくらでもあると思い、
唯一解でなければならないという思い込みから解放されることだ。
将棋ですら最善手の積み重ねじゃないんだ。
ストーリーだってそれで良い。
にも関わらず「計算され尽くした」とかいうやつは、
脚本を書いたことがないやつだけだ。
2022年11月23日
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