2022年11月28日

怪談は、不在から現れる想像

怪談の正体は、見る側の想像力ではないかと僕は思っている。
幽霊は実在しない、頭の中にいるのだ、という考え方だ。


「遠野物語」に、巨大なわらじの話がある。
なぜかとある家にそれがあり、
ここには巨大な人間が住んでいるのだ、
という話だ。
怪談なので、話はそれでおしまい。
遠野に伝わる不思議な話の収集が遠野物語なので、
実在の不思議話にすぎない。

このわらじの主が出てこないことで、
我々の想像力が刺激される。

巨大な人は天狗だったのではないかとか、
妖怪だったのではないかとか、
人とのあいの子だからこの家に住んでいたのだとか。

ぶっちゃけ、
土産物屋の看板であるところの、
巨大なわらじだったのかもしれない。
あるいはわらじ職人がつくった、
自分の技量を示すデモンストレーションだったかもしれない。
冬にすることがないから、
ためしにどれだけ巨大なわらじをつくれるのか、
競争して優勝したやつかもしれない。
実際のところはそんなもんで、
別に天狗のわらじではなかったのだろう。

ところが、
それを「ここに昔天狗が住んでいて、
それを履くためにいつかここに戻って来る」
という風に想像すると、
おもしろくなる。

それが怪談の正体だ。
想像の中に怪談がいるのだ。

暗闇が怖いのは、我々が想像してしまうからである。
未来が怖いのは、我々が想像してしまうからである。
時間と想像は、かなり関係があると思う。

巨大なわらじが吊ってあるところが、
田舎に行くとたまにある。
そば屋の客寄せ用だろう。
ただの民芸品だとも思う。
それを想像をもって、
「天狗のわらじ」というところに、
想像の翼があるわけだ。

そういえば渋谷のセンター街入ったところの、
アクセサリー屋に、巨大なハットが飾ってあるよね。
夜な夜な天狗がかぶりに来るんだとしたら面白い。
そして一個足りないときは、
天狗がかぶって渋谷をうろついているときなんだぜ。

ただメンテで店の奥に引っ込んでいただけだとしても、
怪談はこのように「想像」でつくられるわけだ。

デマや都市伝説には、こうした要素があることが多い。
だから物語作家と都市伝説は相性がよい。


ところでイーロンマスクがツイッターを買収し、
トランプを復活させた。
中国がコロナをつくったとトランプは言っていたはずで、
凍結の原因はそれだと言われている。
コロナは新世界秩序をつくった。
その黒幕は……おっと誰か来たようだ。
このように、「見えないもの」には、
人は想像して、物語をつくることが出来る。


怪談は、落ちのない物語だと僕は思う。
半人前のやつで、落ちがないからこそ、
想像してしまって怖くなるように仕向けられたものであると。

サモトラケのニケは、
両腕と頭がないから想像力を刺激されて美しい。
これが全部そろっていたら、
大したことないもの扱いだったかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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