怪談の正体は、見る側の想像力ではないかと僕は思っている。
幽霊は実在しない、頭の中にいるのだ、という考え方だ。
「遠野物語」に、巨大なわらじの話がある。
なぜかとある家にそれがあり、
ここには巨大な人間が住んでいるのだ、
という話だ。
怪談なので、話はそれでおしまい。
遠野に伝わる不思議な話の収集が遠野物語なので、
実在の不思議話にすぎない。
このわらじの主が出てこないことで、
我々の想像力が刺激される。
巨大な人は天狗だったのではないかとか、
妖怪だったのではないかとか、
人とのあいの子だからこの家に住んでいたのだとか。
ぶっちゃけ、
土産物屋の看板であるところの、
巨大なわらじだったのかもしれない。
あるいはわらじ職人がつくった、
自分の技量を示すデモンストレーションだったかもしれない。
冬にすることがないから、
ためしにどれだけ巨大なわらじをつくれるのか、
競争して優勝したやつかもしれない。
実際のところはそんなもんで、
別に天狗のわらじではなかったのだろう。
ところが、
それを「ここに昔天狗が住んでいて、
それを履くためにいつかここに戻って来る」
という風に想像すると、
おもしろくなる。
それが怪談の正体だ。
想像の中に怪談がいるのだ。
暗闇が怖いのは、我々が想像してしまうからである。
未来が怖いのは、我々が想像してしまうからである。
時間と想像は、かなり関係があると思う。
巨大なわらじが吊ってあるところが、
田舎に行くとたまにある。
そば屋の客寄せ用だろう。
ただの民芸品だとも思う。
それを想像をもって、
「天狗のわらじ」というところに、
想像の翼があるわけだ。
そういえば渋谷のセンター街入ったところの、
アクセサリー屋に、巨大なハットが飾ってあるよね。
夜な夜な天狗がかぶりに来るんだとしたら面白い。
そして一個足りないときは、
天狗がかぶって渋谷をうろついているときなんだぜ。
ただメンテで店の奥に引っ込んでいただけだとしても、
怪談はこのように「想像」でつくられるわけだ。
デマや都市伝説には、こうした要素があることが多い。
だから物語作家と都市伝説は相性がよい。
ところでイーロンマスクがツイッターを買収し、
トランプを復活させた。
中国がコロナをつくったとトランプは言っていたはずで、
凍結の原因はそれだと言われている。
コロナは新世界秩序をつくった。
その黒幕は……おっと誰か来たようだ。
このように、「見えないもの」には、
人は想像して、物語をつくることが出来る。
怪談は、落ちのない物語だと僕は思う。
半人前のやつで、落ちがないからこそ、
想像してしまって怖くなるように仕向けられたものであると。
サモトラケのニケは、
両腕と頭がないから想像力を刺激されて美しい。
これが全部そろっていたら、
大したことないもの扱いだったかもしれない。
2022年11月28日
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