2022年11月17日

ただ時間が過ぎてゆく(「ベイビーブローカー」評2)

あんまり韓国映画で見ない場面が多かった。
それは日本映画特有の何かじゃないかと思った。

それは、「ただ時間が過ぎてゆく」という感覚。

ネタバレありで。


クライマックスの、赤ん坊を渡しにいくのも、
なんだか時間切れみたいな感じだった。
「生まれてきてありがとう」のシーンも、
ただ時間が過ぎていただけだった。

女刑事の昔見た映画の音楽を聞かせて、
何やらドラマをつくろうとしていた
(失敗)なのも、
時間が過ぎていただけだった。

主人公の離婚した嫁との娘の喫茶店での、
「うまく行かずに時間が過ぎていく」は、
よい。それは意図だからね。

その他、一人や二人で何かをして、
ふと考えるような、
そんな芝居が多かったように思う。

港での缶蹴りのようなものをするシーンもそうだ。
チゲ鍋を養護園の先生と食べに行くシーンもそうだ。
そこに泊まって寝て起きたあとの、雨だれのシーンもそうだ。
女刑事の、窓に花びらがついてるのを取るシーンも。

これは、一つ二つ挿入されるならば、
文学的で美しいシーンだったり、
人の真実を見せるシーンだったりして、
緩急で言えば緩になるシーンかもしれない。

だがメインストーリーにはいらないシーンだよね?

なぜなら、
「なにかのためになにかをしなければならず、
そのためになにかをしなければならない」
ようなシーンではないからだ。

日本人の仕事観、ひいて言えば自然観が、
ある種の諦念、
「だまって耐えて粛々としてれば、
時が来て終わる」
とともにあるのかもしれないが、
それと映画的物語は、
僕は違うと思う。

やらなきゃいけない仕事がある、
しかしそれとは関係なく僕は素敵な瞬間を見つけてしまい、
ついつい夢中になってしまった、
よし仕事に戻ろう、夜になれば終わるさ、
みたいな、
逃避的な心性があったように思う。

これは、
「ただ時間を過ぎていくのを待つだけ」
のように思えるんだよね。

積極的に仕事に関わり、
交渉し、少しでも良い結果を出したり、
自分のパートを機能させたりするよりも、
ただその場にいて、
終わるのを待ってる、
「メンバーとしてそこにいることが重要」
みたいな、
日本の仕事のあり方みたいなことまで、
見えてくるように思う。

なんであんなに沢山現場に来るんだ、
何もできないし、全権委任されてないし、
みたいなやつ。

その、
「そこにいて、ただ時間が過ぎていくのを待ち、
本題は逃避のほう」
みたいな、飲みニケーション的な、
そんな「時間を過ぎてゆく」を眺める映画ではなかったか?


本来ならば、
「とある赤ん坊遺棄と人身売買があり、
その現行犯逮捕をもくろむ女刑事が尾行し、
人身売買しようと旅しているうちに、
擬似家族みたいになってゆく」
というストーリーには、
不要なシーンだからカットするべきだ。

じゃあその本筋ってなに?

家出して拾われて売春婦になり、夫を殺した母親、
養護園出身で親に捨てられた男、
ヤクザに借金を背負ってる男、
もう手遅れで養子になれない少年、
それを追う女刑事、
ヤクザ、
養子を迎える夫婦たち、
の間に、ハチャメチャな何かがあり、
そこで人生の真実がわかること、
じゃないか?

となると、
遊園地の観覧車の中のプロポーズの成就で、
ヒロイン自首、男二人はクリーニング屋を畳んで夜逃げ、
男二人で赤ん坊とサッカー少年を育てるために、
さらなる人身売買をするか、クリーニング屋を続ける、
みたいなストーリーになるべきだろう。

それが面白いかどうかはわからない。
前振りに対して落ちをつける、
という意味ならば、これが必要というだけに過ぎない。

前振りに対して閉じた物語になっていない、
というのがこの映画の脚本的破綻だ。

目的を持つ人たちの結果がどうなった?
成就したのは女刑事だけだよね。
それはおもしろいの?



目的に対する行動をしようとせず、
ただ時間だけ過ぎていく瞬間を眺めている、
みたいなことがとても多かった。


たぶん、これが、「しみったれた邦画」の正体かもしれない。
これとメアリースーが重なったら最強の最悪なのだろう。

あまえんな。
posted by おおおかとしひこ at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック