2022年11月17日

【薙刀式】信号変換と書くことの差

文章を書くことを、信号変換のみと考えるか、
そうでないかで、配列の設計方針は変わると思う。


信号変換モデルでは、
コピータイピングと創作文の差はない。
文章の出元が違うだけで、
文字を打つことは、
それを運指に信号変換するだけのことである、
と考えるわけだ。
文章Xに対して、運指変換などのfをかけた、
作業後f(X)が、
最終的に出来上がったデジタル文章だ。

この信号変換モデルでは、
fの効率は、統計的に求められる。

統計的によく出るパターンを、
打ちやすい運指に当てることが、
fの設計方針になるわけだ。

この統計と設計や評価のいろいろが、
配列の個性になってきたように思う。


新JISは、教科書文章を根拠に、
連続する二文字を左右交互になるように、
濁音になるカナは左、濁点を右にして左右交互交互になるように、
統計データを用いた。

新下駄は、
100万字統計を取るところからはじめて、
二連接データを利用して、
左右交互とアルペジオを含めた、
打ちやすい位置に置いてある。

親指シフトは漢語の二文字を左→右に置いて、
小指をアンカーとしたようだが、
それ以外の設計方針はよくわからない。

月配列系の計算配列は、
遺伝的アルゴリズムを用いて、
それぞれの評価関数での最適値を求めていて、
それが最善かは置いといても、
従来の配列よりも、
統計的なスペックはあがった。

星配列は連続する三文字に配慮した。
(評価はよくわからない)


仮に同じ統計データを用いたとしても、
指の頻度をどのように数値的に評価するか、
「打ちやすい/にくい連接」をどのように数値的に評価するかは、
一定の答えがないため、
これが配列を一意に決められない原因だろう。
あるいは制作過程で、
初期値依存性がとても高いこともある。
(仮に最初にJに「い」を置くか、「あ」を置くかで、
その後はずいぶん違ったものになると思う)

これらによって、
配列たちはとても個性豊かなバラエティがあるのだが、
いずれにせよ共通している仮説があり、
それが信号変換モデルというわけだ。


数学的、統計的には正しそうなこのモデルに、
僕は違和感があった。

うまく言葉にできないが、
文章を書くという行為は、積分だけではないのでは、
ということかな。
今、考えて、まさに次に表現することは、
微分だからね。
もちろん積分の大きな流れの中にいるんだけど、
今ここで書きたいことは、微分的な視野だと思う。

つまり「書くこと」とは、
すでに出来上がった文章を、
頭から尻まで変換する積分的な行為ではなくて、
「おおむねこうするぞ」という方向性を決めた上で、
微分的に展開して、
微分的に着地点を探す行為であると思うのだ。

ペンと紙はそのための道具だ。

それをキーボードと配列で置き換えるならば、
その機能がないものは、
「書くこと」には向かないのではないか?

僕の違和感をことばにするとこうなるかな。
書くことは信号変換じゃなくて、
「うろうろしながら正解を見つけ続けること」
みたいな感覚。


だから、
それをしやすい配列が、
「書くこと」に向く配列ではないか?
というのが僕の主張になり、
その結実が薙刀式であるわけだ。

勿論、統計的な連接を打ちやすくしたり、
漢語熟語の打ちやすさへの配慮はある。
だけどそれはメインじゃない、
というバランスだね。

もっともメインになることは、
「繋ぎの語」を、
中央指でアルペジオで打ちやすくしていること、
とまとめることが出来ると思う。

書くこととは何か、
考えることとは何か、
というのはよくわかってない。

日本語でそれらをやることは、
何か=A, B, C…を、
接着剤=x, y, z…で、
繋げていくこと、ではないか、
と僕は考えた。

ざっくりいうと、
AxByCzが文章であり、考えである、
というモデル化だ。

これは世界に数言語しかない膠着語に、
日本語が属するからだと思う。

世界のほとんどの言語は格構造をもっているが、
日本語は格構造をもたずに、
次々と言葉をつなげて文意をつくっていく言語である。
(膠=にかわのこと。糊といいかえてもよい)

この接着剤機能のうち、
薙刀式が打ちやすいものを、
「繋ぎの語」と呼ぶ。


それには色々なものがあり、

・助詞(で て に と を は ので も でも まで…)
・助動詞(られる される ている た だ…)
・接続詞(そして しかし だから…)
・活用語尾
・複合動詞(〜する 〜はじめる 〜つづける…)
・口語での繋ぎ(でね よね なので ということで…)
・よく使われる一体表現(である ではない と思われる 
  だとして それからの かもしれない…)

などをそれとしている。

もちろんパーフェクトではないけれど、
なるべくそうなっている、
というのが設計思想だ。


文章の種類によって、
ABCはいくらでも変わり得る。
頻度統計はある程度有用だけどそこどまりだ。
しかしxyzは日本語文法で決まってるし、
そこは繰り返し使われると考えた。

だから、このxyz部分を打ちやすくしておくと、
使いやすく、
色々なものを繋げやすい、
つまり「ものを書きやすい」
配列になるのではと考えたのだ。


当然、有限個の組み合わせだから、
統計的信号変換効率は、
繋ぎの語を重視した分落ちるだろう。

しかし、
どちらがものを書くことに近いか?
という議論なわけだ。


恐らくこんなことを言ってる配列は、
薙刀式だけのように思う。

飛鳥配列にはその痕跡を見ることができるが、
作者のRayさんが上の議論をメインにしていたような記憶はない。
(多少はあったかもだけど、
膨大な飛鳥文書の中から探すのは無理でした)



打鍵効率のその先へ。
信号変換効率のその先へ。

ものを繋ぐことが考えること、書くことで、
その繋ぎが加速することが、
ものを考えることをやりやすくする。
ていうか、考えにブレーキをかけない。

これが薙刀式の目指すところで、
それはかなりの度合いで達成されているのは、
数々の動画で示しているところだ。
僕の指はたいして速くない。
高々タイプウェルSS程度で、Xタイパーに及ばない。
だけど、
考えを繋ぐのが速く、
それがやりやすい配列になってるから、
結果的に速いのだと考える。

もちろん、
繋ぎの語を重視してるゆえに、
そのぶん話題の語(ABC…)がメインの、
タイピングゲームでは薙刀式は遅れを取ると思う。

でも早撃ちが目的じゃないからね。
思考を邪魔しない速さと楽さで書いて、
思考に全振りしたいことが目的だからな。



もちろん、
書くことや考えることの、
他のモデル化もあるだろう。
逆にそれがどのようなものかにも、
僕は興味津々だ。

「私はなぜこの配列を使いやすいと思うのか」
「私はこの配列のここをこのように使いやすいと思う」
をみんなもっと語るべきで、
その逆の、
「この配列のここはクソ!」
「この配列のここが合わなかった」も語るべきだろう。
もしその人の中でそれらが一貫していれば、
そこに傾聴の価値がある。

思考や書くことのモデルが、新しくつくれるかもしれないからね。
posted by おおおかとしひこ at 15:16| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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