2022年11月23日

あだ名って面白い

今カフェでおばちゃんたちが高校の頃の昔話をしているのだが、
コバケンと堀ちゃんが大体出てくる。
小林健太郎的な人と堀なにがしなのだろう。
なぜあだ名があるのか?
「それを、受け入れやすくするため」だろう。


小林と呼ぶにはあまりにもよそよそしいほど、
おそらくコバケンは人懐こい人なのだろう。
堀と呼び捨てにするにはもったいないほど、
堀ちゃんは愛嬌のある人なのだろう。

あだ名のつけ方で、
その人がその社会でどのような受け入れられ方をしているか、
わかるわけだ。
あだ名はつまり、その社会の無意識である。

僕は昔からあだ名は大ちゃんとか俊ちゃんだったが、
会社に入ってから、
大岡先生と呼ばれることが増えた。
これってどういう変化なのだろうと思ったら、
京大院卒なんてそのへんにいないし、
僕が映像関係の知識がたくさんあるため、
そういうキャラとして認識されたのだと思う。
でもよく考えたら、
大ちゃんや俊ちゃんと呼ぶ人は、
ほんの僅かだった。
そういう人とは今でも付き合いがあるが、
大岡先生と呼んでいた人たちは、
全然どこかに行ってしまった感じだな。

つまり、
表面的にあだ名をつけて、
仲の良い振りをする、
ということも、あだ名で表現できるということだ。
プロフェッサーと呼ばれるキャラはたくさん出てくるだろうが、
その人の知識しか見てなくて、
その人の本心とか、悲しみとか喜びとかは、
たぶんいらないと思っている人が、
プロフェッサーというあだ名をつけるのだろうね。

コバケンやら堀ちゃんは、
だからそのおばちゃんたちの、
恋愛対象ではなかった。
親しまれてはいたが、
友達としてよいだけだった。
アイツ、と呼ぶ仲ではあるが、
あの人、と呼ぶ仲ではなかったのだ。
そんなこともあだ名一つとれば分るのだ。


あなたの登場人物は、
その社会にどのように受け入れられているか?
つまり、その人物ではなくて、
その周りの人物がその人をどのように受け入れているか?
それを、あだ名一つで表現できるし、
それを設定できるということである。
何も考えずにそこを描くこともできるし、
きちんと考えて、詳細をつくっておくこともできる。

そういうディテールに、神が宿ることもある。

おばちゃんたちの話は、
とっくにコバケンや堀ちゃんの話ではなくなった。
そのくらいの軽さの人物なのだろうね。
ああ、いたいたそんなやつ、というくらいの。

当時の女の悪口で今盛り上がっている。
そういう女にはあだ名はついていないのが、
また面白い。

案外憎むべき相手にも、
真剣に恋する相手にも、あだ名はつかないのかもね。
二つ名を用意して親しみやすくしたって、
真剣なときにはそれは使わないものかも。
逆に、あだ名を使うときは、
どうでもいい時かもしれない。

いや、カップルは〇〇ちゃんなどと相手を呼ぶこともある。
それを言わなくなったときに、別れるのかしら。


そうした人間や構成員の無意識が、
あだ名には出るよね。
posted by おおおかとしひこ at 19:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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