2022年11月24日

あだ名の話2

そういえば、コバケンとかカトケンとかヤマケンって、
多い気がする。なんでやろと思ったら、
小林や加藤や山内の姓が被るから、
コバケンとコバヤス、みたいに名前をつけて区別するんだったわ。


クラスが人数が多い時しか成立しないこの独特の命名法は、
今少子化で消失しかかってるかも知れないと気づく。

そういえば同期に、
カトケンとカトジュンがいて、
加藤と呼んだことはなかったな。

堀ちゃんのあだ名も面白くて、
名前を最短手順で呼ぶなら堀なんだろうが、
おそらく「他の奴らと比べて短いため、
ぞんざいに聞こえる」から、
音数を揃える無意識が働いているように感じるね。

そういう意味では、
こうしたあだ名文化は、
「たくさんいる中みんな仲良く(平等に)」
という、
非常に日本的な文化、
和を持って尊しとなす国の、
やり方ではないかと思う。

カトケンは響の通りキビキビしたやつで、
カトジュンは乙女みたいな感じだった。
そういう風にあだ名で雰囲気の違いみたいなことまで、
我々は区別していた。


さて、フィクションだ。

こうした、小さな社会構成員のリアルさを、
うまく持ち込めてるかな?
コバケンやカトケンが一人も出てこない話は、
単にリアリティがないだけではなく、
「その構成員たちがどういう感覚で生きてるか」を、
再現しきれてない可能性がある。
それがうまくリアリティを保てれば、
コバケンやコバヤスはその世界にいるだろうから。

もっとも、フィクションのストーリーでは、
小林が二人いて混乱することはあまりない。
ミステリーでの混同トリックならあるかな。
古典的すぎてやらんだろうな。

だからフィクションは整理されているわけだ。
だけど、整理されすぎてリアリティがないなら、
こうした現実のリアルの汚しを持ち込むといいかもね。
たったネーミングひとつで出来ることなのに、
それによる効果、およびリアリティの構築は、
良好になると思う。

別にコバケンだけ出して、コバヤスは出す必要はない。
まじでややこしくなるからな。
あるいは、
双子の区別をするとか、兄弟が同時にいるとか、
そういうときに役立つ記法になるかもね。


名前というのは、それを呼ぶ人の無意識の反映でもある。
それをうまく使う手もあるのだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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