そういえば、コバケンとかカトケンとかヤマケンって、
多い気がする。なんでやろと思ったら、
小林や加藤や山内の姓が被るから、
コバケンとコバヤス、みたいに名前をつけて区別するんだったわ。
クラスが人数が多い時しか成立しないこの独特の命名法は、
今少子化で消失しかかってるかも知れないと気づく。
そういえば同期に、
カトケンとカトジュンがいて、
加藤と呼んだことはなかったな。
堀ちゃんのあだ名も面白くて、
名前を最短手順で呼ぶなら堀なんだろうが、
おそらく「他の奴らと比べて短いため、
ぞんざいに聞こえる」から、
音数を揃える無意識が働いているように感じるね。
そういう意味では、
こうしたあだ名文化は、
「たくさんいる中みんな仲良く(平等に)」
という、
非常に日本的な文化、
和を持って尊しとなす国の、
やり方ではないかと思う。
カトケンは響の通りキビキビしたやつで、
カトジュンは乙女みたいな感じだった。
そういう風にあだ名で雰囲気の違いみたいなことまで、
我々は区別していた。
さて、フィクションだ。
こうした、小さな社会構成員のリアルさを、
うまく持ち込めてるかな?
コバケンやカトケンが一人も出てこない話は、
単にリアリティがないだけではなく、
「その構成員たちがどういう感覚で生きてるか」を、
再現しきれてない可能性がある。
それがうまくリアリティを保てれば、
コバケンやコバヤスはその世界にいるだろうから。
もっとも、フィクションのストーリーでは、
小林が二人いて混乱することはあまりない。
ミステリーでの混同トリックならあるかな。
古典的すぎてやらんだろうな。
だからフィクションは整理されているわけだ。
だけど、整理されすぎてリアリティがないなら、
こうした現実のリアルの汚しを持ち込むといいかもね。
たったネーミングひとつで出来ることなのに、
それによる効果、およびリアリティの構築は、
良好になると思う。
別にコバケンだけ出して、コバヤスは出す必要はない。
まじでややこしくなるからな。
あるいは、
双子の区別をするとか、兄弟が同時にいるとか、
そういうときに役立つ記法になるかもね。
名前というのは、それを呼ぶ人の無意識の反映でもある。
それをうまく使う手もあるのだ。
2022年11月24日
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