2022年12月05日

ストーリーの構造のこと

先日自作キーボードの人と話してて、
「論文は構造があるから書けるが、
ストーリーは無理」という話が出て興味深かった。

つまり、ストーリーには構造がないから無理だというのだ。
僕はその場で、「いや、ストーリーには構造があるんですが」と解説したら、
びっくりしていた。

なるほど、やったことのない人はそう思うのか。
我々はストーリーづくりをやっているから、
構造があることが前提なのだが。


この場合の構造とはなんだろう。

論文の構造だと、
序論本論結論の三幕で、
これまではこう思われていたが、
ここが問題点で、これはこのようにこう工夫してよくなったのだ、
あるいはこれらをリサーチしてみたらこのような全貌が分かったとか、
そういうことが軸になってくると思う。

それを論証するために、
段階を踏んでなにがしかのことをするわけだね。
仮説実験や調査や計算評価などだ。

これとストーリーは、たいして変わらないと思う。
軸になるのは、
事件と解決であり、
それを段階を踏んで解決していくだけのことである。

ただし、その構造だけだと面白くないから、
人間ドラマを描くために、
人間の弱いところや楽しいところや感動するところを、
うまく抽出して、そのメイン軸に混ぜていくだけのことである。
そのときに外的問題や内的問題の話が出てくるだけだと思うんだよね。

これらは時間の構造(構成と特別に呼ぶ場合もある)だが、
空間構造もある。
人間関係や組織の構成、場所の位置関係、各種設定などだ。

ストーリーとは、その空間構造の中で、
時間構造を持ったものを語ることだと思えば、
論文を書くことと、そう原理は変わらないと僕は考えている。
あたまの中で考える構造があり、
書きながらそのディテールを書き、
話がそれないようにして、
結論へ最短距離で進むことは、ほとんど同じことをやっているといえる。

大きく違うのは、
論文は真実を論証するために書くのだが、
物語は楽しませるために書く、ということだ。
物語は真実の立証が目的ではない。
それっぽい匂いを借りて、真実っぽく見せることもあるが、
それはガワやフレーバーにすぎず、ほんとうの目的は娯楽である。

その違いはあれど、
やっていること自体は、
僕はとてもにていると思っている。


ストーリーに構造がなかったら、
とても書くのは大変だろう。
全部場当たりになるんだろうか?
思い付きでライブ感で回していくことになるのか?
矛盾してしまい、途中で破綻することもあるのか?

実際、連載でそうなっているパターンもなくもないが、
我々が書こうとしているのは映画シナリオである。
そのケースはないだろう。
もっとも、そのようにして書いたものが、
綿密な計画でつくったものより面白い、というパターンもゼロではないので、
それを丸つぶしに考えないほうがいいけどね。

もし、構造をつくらずにストーリーを書くのなら、
それはとても下手な人のやり方だ。
大きな構成をつくらずに論文を書く人と、
大差ない。
論文はそれでも調査事実や発見した法則があるから、
文章が破綻していても構わない、があると思うが、
物語はそうもいくまい。


順々にものを解き明かしていく、
というものでは、どちらも同じである。

ある綿密な構造のもとに、
計画が実行されるのだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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