2022年12月08日

情熱

情熱のこもったものは、必ず人を動かす。
それは多分、人は他人の情熱を読み取る力があるからだ。


ただその情熱は、
脚本の場合、ストーリーそのものに注がれるべきである。

瑣末なディテールにももちろん情熱があった方がいいけれど、
そこに注がれる情熱は、
全体の情熱がこれだから、
ここのディテールを外すわけにいかないからそうしている、
ならば正しくて、
ただディテールを追求して、
全体がぼんやりしているなら意味がない。

つまり、情熱の主はストーリーで、
ディテールは副である。

じゃあそのストーリーの情熱ってなんだろう。
「おれはこの主人公の解決を、
どうしても語りたい」であるべきだろうね。

「おれはこのツカミを、どうしても語りたい」とか、
「おれはこの翻弄される様を、どうしても語りたい」とか、
「おれはこの途中の場面を、どうしても語りたい」とか、
「おれはこの素晴らしい構成の妙を、どうしても語りたい」
では、
軸足と重心が、ストーリーそのものからずれてしまうと思う。


つまり、ストーリーそのものとは結論のことだ。
すべてはそこに向かうディテールであり、
もちろんそこには構成があるのだが、
もっとも情熱を燃やすべきは結論だ。

「主人公がこのようにして解決するから、
この物語をどうしても語りたい」
になるべきなのだ。

つまりはラストである。

ラストにおいて、
主人公は全てを解決して、
再び日常にもどり、
これまでと違った日常に変化をする、
あの瞬間のために、
ストーリーはある。


なぜ、どうして、どのようにして、
主人公は解決したのか。
その解決によって、どのような意味が我々に新しくもたらされるのか。
そこを明確にして、
それをどうしても語りたい、
となっていなければ、
ストーリーそのものに情熱があるとはいえない。

もちろん、
途中途中の場面で、とても出来が良く、
情熱が注がれている場面もあるし、
それは確実に伝わるのだが、
「そこまでやっといて、結局それ?」になるか、
「なるほどあの情熱は、
すべてここに至るためのものだったのか」になるかは、
ラスト次第だろう。


情熱にも色々ある。
大声を出すようなものや、
きらきらにきらめいているものから、
地味だが暗い炎のように延々と続くものや、
乾いているけどしっかりしたものや、
ねっとりしてずっと粘りついているものや、
スコーンと天に抜けるような明るいものやら、
色々な色の情熱がある。

その色は作家の個性かもしれないし、
作品によってその色は変えてもいいと思う。
(一つしかできない作風の人もいれば、
数色だけ飛び抜けている人もいれば、
カメレオンみたいな人もいるだろう)

いずれにせよ、
そのように整理された情熱が、
人を動かすと思う。

でたらめな情熱は、単発で終わりだ。
まとまった情熱が、後ろから後ろからやってくる津波のように、
ずっと続いてラストまで繋がるものが、
ストーリーの情熱である。


あなたは何をしたいのか。
その解決は、何を意味するのか。
最後に主人公はどうなり、それがどういう意味をもたらすのか。
最後に暗転するその直前、
そこが情熱のピークになるべきだ。

逆に、そうなっていないシナリオなんて、
出来が悪いだけだ。
posted by おおおかとしひこ at 01:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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