2022年12月13日

カタログには、意味が必要

スプレッドの問題を考える。
例えばオムニバスを考える。
なぜオムニバスってばらつきが出て、
つまらない一篇が出たりするんだろ?


それは、集めたものには常にばらつきがあるからだ。

どんなに精鋭を集めても、ばらつきは常にある。
優秀な生徒を100人集めても、
質はばらつきがあるだろう。
医者5人の合コン、モデル5人のとかを考えても、
ばらつきは常に出るのだ。

カタログ的にこれを眺めている場合は、
とくにばらつきがあることに、不自然さはない。
今日のメニューとか、
買い物リストとか、
そういうものを眺めているとき、
「ばらついているから、よくない」
と思う人はいるまい。

にも拘わらず、オムニバスになった瞬間、
そのばらつきが面白くなくなる。
どういうことか?

視線が固定されてしまうからだと思う。
つまり、順番が強制的に決められるからだね。

もしこれが本だったりシリーズだったりしたら、
好きなところから見ればいいんだが、
オムニバスというのは強制的に見る順が決められてしまうものだ。
1の次は2、2の次は3……となるわけだ。

カタログは好きなところから見てもいい。
全部をみなくてもいい。好きなところだけ見ればいい。
それとオムニバスは違う。
全部見なきゃいけないし、123……と見なければならない。
まあチャプターがついてて飛ばせたり、
好きなチャプターから見られるものであればその限りではないが、
映画館ではそういう仕組みはない。
だから、そのばらつきを強制されてしまう、
という問題がある。

長く見るものは、リズムが長年工夫されている。
それが三幕構造に現れているわけだ。
オムニバスはその流れに乗っていない。
だからつまらないと感じることが多い。
客の期待されるリズムに対して、ばらつきがあるからである。

これがカタログとオムニバスの違いだ。
じゃあ、オムニバスは、
どうやったら面白くなるだろう?
編集で123の順番を熟考することがひとつ。
ひょっとしたらうまい順番で見せられるかもしれないからね。
でも大体その解は見つからないことが多い。
そもそもバラバラにつくられているばらつきのあるものが、
ある順番になった瞬間面白くなるわけはないだろう。
まあ確率0ではない、という程度だ。

つなぎをつくる方法はひとつある。
観客もオムニバスを見に来ていると分っているわけだから、
幕間のショートを挟むといいことがある。
ソフトクリームにおけるコーンの役割である。
クリーム同士をくっつけず、緩衝材を置くパターンだね。
ヌード劇場における漫才の役割で、
サーカスの出し物に対するピエロの役割である。
劇場のこうした幕間のショートものは、
次の準備時間を稼ぐ役割があるけれど、
実際は観客の気持ちも一遍クリアになるから、
やるべきことなのかもしれないね。
つまり、
1と2は関連がないし、2と3は関連がないから、
つなぎをつくって、1を忘れてから2を、
2を忘れてから3を、という気持ちの切り替えをしたほうが、
得策かもしれない、ということだね。

僕がスプレッドを批判するのはそうしたことだ。
時間軸のあるものは、
順番に関する芸術で、順番に関する意味がない限り、
面白くないのだ。
カタログならば見る順番を決められるが、
時間軸を順番に見るのは、オムニバスになってしまう。
そしてオムニバスは、大体面白くない。


ということは、
オムニバスをやるとき、カタログをやるときは、
「見る順番に意味があるもの」を加えるとよい、
ということもあり得る。

もちろんつながっているのが一番いいけど、
そんな都合のいいオムニバスはないから、
それはそれで難しい。
(ベルエポック方式またはグランドホテル形式という、
1に出ていたサブ人物が次の主人公になり……というのは、
数珠繋ぎにできるいい方法だ。
しかし、数珠繋ぎの連関が難しく、
毎回成功するとは限らない。無理やりなつながりだってあるし、
俯瞰したときに、
その全体に起こったことがそんな都合よく全体的におこらんやろ、
と思ってしまうことも多い。
繋ぎが少しならば、まあそういうこともあるか、
となるけど、4も5もつなぐと、
ちょっと都合よすぎないか?と冷めてしまうことがある。
「グランドホテル」は、ぎりぎりつながりが多すぎると僕は感じる)

あるいは、全然関係ない人々なのだが、
たまたまある偶然に関係している、
というパターンもあるか。
全然つながりがないと思っても、
縁というのはどこかで生まれているのですよ、
というのが仏教的だけどね。



というのも、いまオムニバスに挑んでいるので、
こうしたことを深く考えたわけ。
つながりがないとただのカタログだし、
つながりをつくるとすると難しいなあ、
なんて思い始めた。
とりあえずそれぞれを考えから、
あとで総合的な意味だけ考えるか、
でもいいんだけど、最初に仕込めるなら今かなあ、
などとプロットを練りながら考えている状態。


ただのスプレッドはつまらない。
時間軸や関係性がないからだ。
四天王を突破するのが面白いのは、
四天王がどんどん強くなってインフレしたり、
それを突破すればメインストーリーが進むことが分っているからだ。
だから四天王はオムニバスではない。
逆に、オムニバスがそのようにメインストーリーとかかわっていると、
面白くなるかもしれない。

たとえば、
「囚われの姫が、夜伽を避けるために、
毎晩面白い話を100夜して、
ついにそれを退けた」というのは、
アラビアンナイトのメインストーリーだ。

それを分かっているから、
関係のない100話のスプレッドでも耐えられるんだよね。
「100話怖い話を集めると、
本物の幽霊が現れて101話目になる」
というのは怪談百物語の伝統だ。
そうしたメインストーリー(というほどでもないが、
100を集めた意味、みたいなこと)
があると、
人は無意味につながった100を耐えられるのかもしれないね。

つまり、オムニバスに必要なものは、
こうした何かしらの、
100の外から見た時間軸視点だ。
つまり、オムニバスそのものを、
どういうパッケージングにして、
全体をまとめるのか、という企画性だと思われる。



昔テレビで見た説でずっと探してたやつがあって、
それが「歌織物仮説」と呼ばれることを、
最近調べた。
小倉百人一首は、
なぜか名作というほどのものが含まれていないことがあり、
なぜかネタが被っているものがあるという。

そのつながりをうまくリンクすると、
一枚のタペストリーを描くことが出来て、
10×10の地図になっているという。
それが選者藤原定家の100を決めた意図で、
それはかつての主君後鳥羽院の住まい、
水無瀬(大阪と京都の間。近くに山崎がある)
の地図になって、
讃岐に流された元主君を、
いまだ待っております、というメッセージになるのだ、
というやつがあるんだよね。

これは知った当時は興奮したのだが、
近年妥当性が疑問視されているっぽい。

でも、つまり、
オムニバスとは、
こういう何かのまとめた意志、意図、
みたいなのがないとしんどいということだよね。

単に、
「新進女優〇〇を、新進監督が撮る3本」とかじゃあ、
企画性がないということだ。
もっと強い何かがあると、
そのオムニバスは意味が出来て、おもしろくなると思う。
というか、
「それは聞いたことがないが、面白そうな集め基準だな」
になると、面白くなるわけだね。
セレクトショップの選定基準、みたいなことだからね。



というわけで、スプレッドだけ、カタログだけ、
は面白くない。
セレクトショップは面白い。
百貨店が凋落しているのは、スプレッドになってて、
カタログでしかないからだろう。
セレクトという企画性がないわけだね。
それを、コンセプトというわけだ。
posted by おおおかとしひこ at 08:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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