スプレッドの問題を考える。
例えばオムニバスを考える。
なぜオムニバスってばらつきが出て、
つまらない一篇が出たりするんだろ?
それは、集めたものには常にばらつきがあるからだ。
どんなに精鋭を集めても、ばらつきは常にある。
優秀な生徒を100人集めても、
質はばらつきがあるだろう。
医者5人の合コン、モデル5人のとかを考えても、
ばらつきは常に出るのだ。
カタログ的にこれを眺めている場合は、
とくにばらつきがあることに、不自然さはない。
今日のメニューとか、
買い物リストとか、
そういうものを眺めているとき、
「ばらついているから、よくない」
と思う人はいるまい。
にも拘わらず、オムニバスになった瞬間、
そのばらつきが面白くなくなる。
どういうことか?
視線が固定されてしまうからだと思う。
つまり、順番が強制的に決められるからだね。
もしこれが本だったりシリーズだったりしたら、
好きなところから見ればいいんだが、
オムニバスというのは強制的に見る順が決められてしまうものだ。
1の次は2、2の次は3……となるわけだ。
カタログは好きなところから見てもいい。
全部をみなくてもいい。好きなところだけ見ればいい。
それとオムニバスは違う。
全部見なきゃいけないし、123……と見なければならない。
まあチャプターがついてて飛ばせたり、
好きなチャプターから見られるものであればその限りではないが、
映画館ではそういう仕組みはない。
だから、そのばらつきを強制されてしまう、
という問題がある。
長く見るものは、リズムが長年工夫されている。
それが三幕構造に現れているわけだ。
オムニバスはその流れに乗っていない。
だからつまらないと感じることが多い。
客の期待されるリズムに対して、ばらつきがあるからである。
これがカタログとオムニバスの違いだ。
じゃあ、オムニバスは、
どうやったら面白くなるだろう?
編集で123の順番を熟考することがひとつ。
ひょっとしたらうまい順番で見せられるかもしれないからね。
でも大体その解は見つからないことが多い。
そもそもバラバラにつくられているばらつきのあるものが、
ある順番になった瞬間面白くなるわけはないだろう。
まあ確率0ではない、という程度だ。
つなぎをつくる方法はひとつある。
観客もオムニバスを見に来ていると分っているわけだから、
幕間のショートを挟むといいことがある。
ソフトクリームにおけるコーンの役割である。
クリーム同士をくっつけず、緩衝材を置くパターンだね。
ヌード劇場における漫才の役割で、
サーカスの出し物に対するピエロの役割である。
劇場のこうした幕間のショートものは、
次の準備時間を稼ぐ役割があるけれど、
実際は観客の気持ちも一遍クリアになるから、
やるべきことなのかもしれないね。
つまり、
1と2は関連がないし、2と3は関連がないから、
つなぎをつくって、1を忘れてから2を、
2を忘れてから3を、という気持ちの切り替えをしたほうが、
得策かもしれない、ということだね。
僕がスプレッドを批判するのはそうしたことだ。
時間軸のあるものは、
順番に関する芸術で、順番に関する意味がない限り、
面白くないのだ。
カタログならば見る順番を決められるが、
時間軸を順番に見るのは、オムニバスになってしまう。
そしてオムニバスは、大体面白くない。
ということは、
オムニバスをやるとき、カタログをやるときは、
「見る順番に意味があるもの」を加えるとよい、
ということもあり得る。
もちろんつながっているのが一番いいけど、
そんな都合のいいオムニバスはないから、
それはそれで難しい。
(ベルエポック方式またはグランドホテル形式という、
1に出ていたサブ人物が次の主人公になり……というのは、
数珠繋ぎにできるいい方法だ。
しかし、数珠繋ぎの連関が難しく、
毎回成功するとは限らない。無理やりなつながりだってあるし、
俯瞰したときに、
その全体に起こったことがそんな都合よく全体的におこらんやろ、
と思ってしまうことも多い。
繋ぎが少しならば、まあそういうこともあるか、
となるけど、4も5もつなぐと、
ちょっと都合よすぎないか?と冷めてしまうことがある。
「グランドホテル」は、ぎりぎりつながりが多すぎると僕は感じる)
あるいは、全然関係ない人々なのだが、
たまたまある偶然に関係している、
というパターンもあるか。
全然つながりがないと思っても、
縁というのはどこかで生まれているのですよ、
というのが仏教的だけどね。
というのも、いまオムニバスに挑んでいるので、
こうしたことを深く考えたわけ。
つながりがないとただのカタログだし、
つながりをつくるとすると難しいなあ、
なんて思い始めた。
とりあえずそれぞれを考えから、
あとで総合的な意味だけ考えるか、
でもいいんだけど、最初に仕込めるなら今かなあ、
などとプロットを練りながら考えている状態。
ただのスプレッドはつまらない。
時間軸や関係性がないからだ。
四天王を突破するのが面白いのは、
四天王がどんどん強くなってインフレしたり、
それを突破すればメインストーリーが進むことが分っているからだ。
だから四天王はオムニバスではない。
逆に、オムニバスがそのようにメインストーリーとかかわっていると、
面白くなるかもしれない。
たとえば、
「囚われの姫が、夜伽を避けるために、
毎晩面白い話を100夜して、
ついにそれを退けた」というのは、
アラビアンナイトのメインストーリーだ。
それを分かっているから、
関係のない100話のスプレッドでも耐えられるんだよね。
「100話怖い話を集めると、
本物の幽霊が現れて101話目になる」
というのは怪談百物語の伝統だ。
そうしたメインストーリー(というほどでもないが、
100を集めた意味、みたいなこと)
があると、
人は無意味につながった100を耐えられるのかもしれないね。
つまり、オムニバスに必要なものは、
こうした何かしらの、
100の外から見た時間軸視点だ。
つまり、オムニバスそのものを、
どういうパッケージングにして、
全体をまとめるのか、という企画性だと思われる。
昔テレビで見た説でずっと探してたやつがあって、
それが「歌織物仮説」と呼ばれることを、
最近調べた。
小倉百人一首は、
なぜか名作というほどのものが含まれていないことがあり、
なぜかネタが被っているものがあるという。
そのつながりをうまくリンクすると、
一枚のタペストリーを描くことが出来て、
10×10の地図になっているという。
それが選者藤原定家の100を決めた意図で、
それはかつての主君後鳥羽院の住まい、
水無瀬(大阪と京都の間。近くに山崎がある)
の地図になって、
讃岐に流された元主君を、
いまだ待っております、というメッセージになるのだ、
というやつがあるんだよね。
これは知った当時は興奮したのだが、
近年妥当性が疑問視されているっぽい。
でも、つまり、
オムニバスとは、
こういう何かのまとめた意志、意図、
みたいなのがないとしんどいということだよね。
単に、
「新進女優〇〇を、新進監督が撮る3本」とかじゃあ、
企画性がないということだ。
もっと強い何かがあると、
そのオムニバスは意味が出来て、おもしろくなると思う。
というか、
「それは聞いたことがないが、面白そうな集め基準だな」
になると、面白くなるわけだね。
セレクトショップの選定基準、みたいなことだからね。
というわけで、スプレッドだけ、カタログだけ、
は面白くない。
セレクトショップは面白い。
百貨店が凋落しているのは、スプレッドになってて、
カタログでしかないからだろう。
セレクトという企画性がないわけだね。
それを、コンセプトというわけだ。
2022年12月13日
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