セリフで表現する必要は必ずしもない。
ていうか、セリフで何もかも説明しようとするのは下手のやり方である。
小道具をうまく使うのだ。
たとえば。
「殺してやる!」というよりも、
黙ってナイフを出すほうがいい。
そのうえで叫んでもいいが、
「無言でナイフを出す瞬間」の怖さは、
「殺してやる!」よりも上だろう。
「無言で銃のセーフティを外してこちらに向ける」
のも怖いよね。
「殺してやる!」なんかよりもずっと強い。
「うおんうおん(号泣する)」よりも、
「ハンカチをぎゅっと目頭に当てる」ほうが、
よほど涙をこらえている様が伝わってグッとくる。
「てめえ待ちやがれ!」
と言いながら追いかけるよりも、
「バイクに飛び乗り、エンジンをかける」
ほうが迫力が出るよね。
「台無しにしてやる!」と言って美術作品にペンキをぶちまけるよりも、
無言で黒いペンキをぶちまけるほうが、
圧倒的な強さがある。
確信犯だからだ。
「会いたかったの!」
と、恋人を抱きしめるよりも、
無言でぎゅっと抱きしめて、
自分のマフラーを相手にかけてあげるほうが、
よっぽど愛が伝わるではないか。
言葉は強いが、
言葉以上に強いものが、
小道具を使うと表現できる。
おそらく、
言葉は原始的なものよりも、あとに生まれたからだろう。
原始的なものは感情のバリエーションが少なく、
言葉のほうがより複雑な概念を表すことができるが、
原始的なもののほうが、
言葉で示すよりも強い感情になっているわけだ。
だから、なるべく強い表現をしたいならば、
無言に書き換えるとよい。
無言だとまったくわからないならば、
その感情を小道具で表現すればいいのだ。
ナイフや銃は殺意。
ハンカチは涙。
ペンキは抗議。
マフラーは愛情。
言葉でわざわざ解説することがばかばかしいくらい、
それらで表される感情は、
豊かでみずみずしい。
むしろ、言葉でとらえきれない、
それ以上の複雑な感情すら、
小道具は語る。
小道具で語っていることを言葉にしたら、
なんだか矮小になってしまったような錯覚すらある。
言葉はつまり、
限定的な要素しかないということだ。
言葉の守備範囲は狭いのだ。
そりゃそうだ。世の中の何かを切り分けるために言葉はある。
正確に言い表すことが言葉の使命であって、
守備範囲が狭いほど言葉としては切り分け力が強く、
優秀な言葉だからね。
人間の感情は、そうした切り分けツールで切り分けると、
矮小になってしまうような、
もっと大きくて複雑なものである。
だから、説明台詞ってつまらないんだよね。
もっと大きくて複雑なことを示したいのに、
細かい言葉をえんえん並べるからだね。
そういうときは、
小道具を使うのだ。
ソフトクリームを食べているとする。
「それからそいつはどうなったんだい?」
と問われて、
「ぼこぼこにしてやったぜ」という代わりに、
コーンをぐしゃってやるのは、よくある表現だけど、
効果的である。
言葉を使わずに、それ以上の何かを伝えているからだね。
逆にいうと、それをやるために、
最初からソフトクリームをなめているわけだ。
「ようし、この場面はソフトクリームを舐めていると、
ビジュアル的にいいからそうしよう!」
じゃないんだよね。
小道具として使うために、最初からそこにあるわけだ。
チェーホフの例では、
「壁にかかった銃は、必ず使われる」というものだ。
出てきたものは、のちに使う為に出すんだね。
小道具はつまりそうした性格のものである。
カップ型のアイスでもいいよ。
医者が食ってて、
「どうですか?」と聞かれたら、
そのスプーンを投げれば一発だよね。
そのためにカップ型のアイスを出すんだよ。
で、
そのスプーンを投げさせないために、
「どうですか?」と聞きながらスプーンを奪う、
という芝居だって可能になるわけ。
「おい!」ってなったら、
「だってこの匙投げられたら困ります」なんて返しが可能になる。
そこまでストレートじゃなくて、
もっと軽妙なやり取りにすることもできるだろう。
そのへんは会話術だろうが、
会話術がなくても、
「カップ型アイス(とスプーン)」
という小道具さえ用意すればいいわけ。
つまり、会話が苦手な人は、
小道具で表現する方法を学ぶといい。
体系的なものはない。
セリフでいうとしたらどうだろう?を考えて、
じゃあそれを小道具で無言で表現する方法はないかな?
ってうんうんうなる。
それで思いついたら、
最初からその場面に出しておけばいいだけだね。
慣れてくると、
その場面以前に、伏線として出しておく、遠投も可能だろうね。
小道具は演劇的なものだけど、
映画の小道具はもっと象徴的に使うことが出来る。
クローズアップが可能だからね。
とても小さなものや、リアルではないものでも、
小道具にできるぞ。
最近書いたネタでは、
「妻が生前海外通販で買っていたものが、
数か月かかってようやく届き、
『何に使うつもりだったんだよこれ』と、
残された夫が呟く」
という場面があった。
単なるディレイを、こうした「新しい形見」というアイデアに使えるわけ。
身の回りの、だからなんでも小道具になるんだよね。
小道具は単なるアイテムだが、
映画で使うと象徴になる。
ナイフは殺意の、
通販は死んだ妻が何かしようとしていたことの。
ちょっとしたアイデアだ。
でもそれで「おっ」と思えば、
見ている人はその世界にひきこまれる。
下手なやつがやってないぞ、ってわかるからだ。
2022年12月14日
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