2022年12月14日

小道具を使って無音で表現する

セリフで表現する必要は必ずしもない。
ていうか、セリフで何もかも説明しようとするのは下手のやり方である。
小道具をうまく使うのだ。


たとえば。
「殺してやる!」というよりも、
黙ってナイフを出すほうがいい。
そのうえで叫んでもいいが、
「無言でナイフを出す瞬間」の怖さは、
「殺してやる!」よりも上だろう。
「無言で銃のセーフティを外してこちらに向ける」
のも怖いよね。
「殺してやる!」なんかよりもずっと強い。

「うおんうおん(号泣する)」よりも、
「ハンカチをぎゅっと目頭に当てる」ほうが、
よほど涙をこらえている様が伝わってグッとくる。

「てめえ待ちやがれ!」
と言いながら追いかけるよりも、
「バイクに飛び乗り、エンジンをかける」
ほうが迫力が出るよね。

「台無しにしてやる!」と言って美術作品にペンキをぶちまけるよりも、
無言で黒いペンキをぶちまけるほうが、
圧倒的な強さがある。
確信犯だからだ。

「会いたかったの!」
と、恋人を抱きしめるよりも、
無言でぎゅっと抱きしめて、
自分のマフラーを相手にかけてあげるほうが、
よっぽど愛が伝わるではないか。

言葉は強いが、
言葉以上に強いものが、
小道具を使うと表現できる。

おそらく、
言葉は原始的なものよりも、あとに生まれたからだろう。
原始的なものは感情のバリエーションが少なく、
言葉のほうがより複雑な概念を表すことができるが、
原始的なもののほうが、
言葉で示すよりも強い感情になっているわけだ。

だから、なるべく強い表現をしたいならば、
無言に書き換えるとよい。
無言だとまったくわからないならば、
その感情を小道具で表現すればいいのだ。
ナイフや銃は殺意。
ハンカチは涙。
ペンキは抗議。
マフラーは愛情。
言葉でわざわざ解説することがばかばかしいくらい、
それらで表される感情は、
豊かでみずみずしい。
むしろ、言葉でとらえきれない、
それ以上の複雑な感情すら、
小道具は語る。
小道具で語っていることを言葉にしたら、
なんだか矮小になってしまったような錯覚すらある。
言葉はつまり、
限定的な要素しかないということだ。
言葉の守備範囲は狭いのだ。
そりゃそうだ。世の中の何かを切り分けるために言葉はある。
正確に言い表すことが言葉の使命であって、
守備範囲が狭いほど言葉としては切り分け力が強く、
優秀な言葉だからね。

人間の感情は、そうした切り分けツールで切り分けると、
矮小になってしまうような、
もっと大きくて複雑なものである。

だから、説明台詞ってつまらないんだよね。
もっと大きくて複雑なことを示したいのに、
細かい言葉をえんえん並べるからだね。
そういうときは、
小道具を使うのだ。

ソフトクリームを食べているとする。
「それからそいつはどうなったんだい?」
と問われて、
「ぼこぼこにしてやったぜ」という代わりに、
コーンをぐしゃってやるのは、よくある表現だけど、
効果的である。
言葉を使わずに、それ以上の何かを伝えているからだね。
逆にいうと、それをやるために、
最初からソフトクリームをなめているわけだ。
「ようし、この場面はソフトクリームを舐めていると、
ビジュアル的にいいからそうしよう!」
じゃないんだよね。
小道具として使うために、最初からそこにあるわけだ。
チェーホフの例では、
「壁にかかった銃は、必ず使われる」というものだ。
出てきたものは、のちに使う為に出すんだね。
小道具はつまりそうした性格のものである。

カップ型のアイスでもいいよ。
医者が食ってて、
「どうですか?」と聞かれたら、
そのスプーンを投げれば一発だよね。
そのためにカップ型のアイスを出すんだよ。
で、
そのスプーンを投げさせないために、
「どうですか?」と聞きながらスプーンを奪う、
という芝居だって可能になるわけ。
「おい!」ってなったら、
「だってこの匙投げられたら困ります」なんて返しが可能になる。
そこまでストレートじゃなくて、
もっと軽妙なやり取りにすることもできるだろう。
そのへんは会話術だろうが、
会話術がなくても、
「カップ型アイス(とスプーン)」
という小道具さえ用意すればいいわけ。

つまり、会話が苦手な人は、
小道具で表現する方法を学ぶといい。
体系的なものはない。
セリフでいうとしたらどうだろう?を考えて、
じゃあそれを小道具で無言で表現する方法はないかな?
ってうんうんうなる。
それで思いついたら、
最初からその場面に出しておけばいいだけだね。

慣れてくると、
その場面以前に、伏線として出しておく、遠投も可能だろうね。


小道具は演劇的なものだけど、
映画の小道具はもっと象徴的に使うことが出来る。
クローズアップが可能だからね。
とても小さなものや、リアルではないものでも、
小道具にできるぞ。


最近書いたネタでは、
「妻が生前海外通販で買っていたものが、
数か月かかってようやく届き、
『何に使うつもりだったんだよこれ』と、
残された夫が呟く」
という場面があった。
単なるディレイを、こうした「新しい形見」というアイデアに使えるわけ。

身の回りの、だからなんでも小道具になるんだよね。
小道具は単なるアイテムだが、
映画で使うと象徴になる。
ナイフは殺意の、
通販は死んだ妻が何かしようとしていたことの。


ちょっとしたアイデアだ。
でもそれで「おっ」と思えば、
見ている人はその世界にひきこまれる。
下手なやつがやってないぞ、ってわかるからだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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