小説でも、昔話でも、
過去形を前提としている。
小説の地の文は過去形で書くし、
昔話は「むかーしむかしのことじゃった」だし、
そもそも「昔の話」だし。
演劇と映画だけが、
現在形という特殊な文脈なのだ。
それは、俳優が演じている、
「今、生のこと」という約束事だからだ。
過去ならば再現ドラマみたいなことがあるが、
そこでも「その場の人物(俳優)にとっては、現在」
というていで進められる。
勿論、厳密には、小説や昔話でも、
今そこで進行している途中では、
「登場人物にとっては現在」である。
ところが、
小説は過去形だし、途中で時制の違うものを重ねることもできる。
彼は「〇〇〇」と言った。
しかしこれは3年前にやったことと同じであることに、
まだこの時点で気づいていなかった。
のようにも書けるということだ。
この、3年前のことを知っているのは書き手であり、
まだ気づいてないことを解説するのも書き手である。
つまり書き手は未来のある時点から、
何もかも知った状態で、
今の物語をつづっている、というていである。
昔話も同じで、
ずっと昔にあった、ある出来事を、
未来の時点であるところの、今から語るのだが、
この先に何があるか、もっと過去にどういうことがあったのか、
語り手は全部知っている、というていのはずだ。
シナリオだけが、
そのような語り手がいないことに気づかれたい。
もっとも、ナレーションをかぶせることで、
その「未来からこの物語全体を見ている書き手」を、
登場させることは可能である。
しかし多用はしないのがマナーだ。
俳優による「現在」に干渉しすぎて、
現在が覚めるからだね。
そんなん全部わかってるんだったら、
もう結論だけ言って終われや、
になってしまう。
小説や昔話がそうならないのは、
リアルタイムではないからだと思う。
映画や演劇だけが、
リアルタイムで、途中で止めたり、
早送りや巻き戻しをしたり、再生スピードを変えられないわけだ。
一時期話題になった早送りで映画を見る人々は、
昔話や小説のように、
過去にあった出来事として見ているのではないかと思う。
だって大体過去の名作をみたりするときにそれをするからね。
「チェックする」という目的でそれをやるわけだからそうなるのだろう。
もしそれがライブでやっていることならば、
早送りしないだろう。
ドキドキ感を味わいたいだろうからね。
ライブではなく、たとえば10分遅れで追っかけ再生していたとしても、
早送りして現在に追い付くことはないだろう。
それをライブで見ている感覚を味わいたいからだ。
つまり、
ライブ性が足りない「過去」だと認識しているものだけ、
人は未来からそれを見て、
早送りしたり戻したくなったりするのではないだろうか?
さて、
映画シナリオは、
そういうことを分かりながら書くべきだ。
今現在は、とてもライブ感があり、
どうなるかわからないようなものとして書くべきだ。
整理されていない混沌で、
つくりものっぽいご都合や分かりやすさはないほうが、
リアルでライブ的というものだ。
ところが、
全体を俯瞰して見たときは、
昔話、
つまり、整理されているものであるべきだ、
というのが僕の意見だ。
なぜなら、そのように整理されない限り、
テーマを描くことはできないからだ。
テーマを描くには、論文と同じで、
的確な構成が必要である。
ライブ感覚はいらない。
その雑味を抜き、
整理し、反論や周辺のものも見渡したうえで、
最短距離で論じていく必要がある。
それと、ライブ感が喧嘩をするわけだね。
つまり、
シナリオとは、
ライブ感をずっと保ちながらも、
いつの間にか整理された論文のようになっていないといけないわけだ。
整理や構成に気づかれたらアウトだし、
ライブ感で論が濁るのはアウトなわけ。
これが、シナリオが根本的に難しい原因ではないかと思っている。
音楽やショウのようなライブ感をつねに担保しつつ、
俯瞰でみたら昔話や論文のような、
未来からすべてを見渡したような構造になっていて、
結論を具体的に言わずとも、
結論が察せられるようなものになっているべき、
ということだ。
めちゃくちゃ難しいやんか。
だから、なかなか名シナリオは生まれないのだ。
たとえば漫画「進撃の巨人」は、
ライブ感は素晴らしかったが、
昔話としてのテーマ性は薄かった。
「それを言う為にそういう構成だったのか」
ということはまったくなく、
自己犠牲がテーマ?という程度のものだったね。
ミカサ好き、程度だろう。
それが、巨人の世界や閉ざされた壁の中の世界とは、
まるで関係なかったことが、
進撃の巨人が文学たりえなかったところだと思う。
それは単なるライブショウに過ぎなかったのだと。
じゃあ、逆に、こういうことを言いたいです、
だからこういう風に下積みして、
このように論を展開します、
だったら、
ライブ感がなさすぎて、
「どうせこうなるんでしょ?」になるだろうね。
ドラマ形式で何かを説明するようなものとかは、
そのようなご都合や段取りになってしまっているわけだ。
ファイアパンチを擁護する人は、
そのライブ感をいいと評価するだろう。
僕はファイアパンチをまったくいいものと思っていなくて、
それはテーマに関して整理されていない、
昔話としての構成のなさを批判している。
つまり、見ているところが真逆なんだよね。
シンゴジラにしてもそうだ。
武蔵小杉の陥落や、鎌田からの上陸、
在来線爆弾など、ライブ感はたっぷりあったが、
じゃあこの話ってどういう意味だっけ?
ということになると、何もない。
そこが映画ではなく、
怪獣上陸退治ドキュメントでしかないよ、
という話をしているわけ。
ライブ感がいいという人は、
おそらく昔話や、小説などの、
「過去を整理して話すこと」に接しなれていないのではないか、
とすら思う。
だって人に話すときに言葉が不自由な人が多いので。
ライブ感は非常に大事だが、
それは知性のない獣と同じである。
人類が到達した知性は、
現状を捨象して、抽象レベルにあげて、
整理することである。
映画は、両方をやる。
だからシナリオは難しい。
どちらかというと、
脚本家のシナリオは整理するほうで、
監督の現場演出が、ライブ感の担保のほうと、
担当は分れていたりする。
現場演出がどれほどリアル感があって、
ライブっぽかったとしても、
「で、それがなんなん?」が確定しないと、
映画的文学にならないわけだ。
そういえば「クローバーフィールド」でも、
僕は同じことを言っていたような気がする。
映画は論文である。
映画はライブである。
両方できていないと、シナリオではない。
2022年12月17日
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