ってなんや。僕の感覚的な言葉。
それはつまり、応用力があるかないか、ということ。
たとえばあるストーリーを書いていたとする。
それが何かに似ているからNGになったり、
なんだか面白くないからリライトしたくなったり、
したとしよう。
そのときに、物語筋がない人は、
改定がうまく出来なくて失敗することが多い、という話。
改定、改造は、物語を新しく作る能力以上に、
分析力や、別の構造を作り出す能力や、
捨てる能力や、うまくつぎはぎする能力や、
全体像から見て改定する力など、
物語の総合力が必要だと思う。
物語筋とはそんな感じ。
それってキャリアがかなり必要だと思うんだけど、
最近のプロデューサーはあほなので、
新人にやらせて、新人がつぶれるまでやらせる。
そして、何回直してもよくならない、なんていうわけ。
筋肉のついていないやつにダッシュ何回もさせたら壊れるのは当たり前ではないか。
そういうコーチに当たった、
筋肉のついていない新人は不幸だ。
ていうか、僕だってそうされかけたし、
実際筋肉が十分じゃなかったから、
「いけちゃんとぼく」は部分的にしか成功していない。
もっと筋肉があれば、もっとうまく戦えたのになあ、
と今でも思う。
その筋肉はどうやってつくのだろう?
僕は筋肉と同じで、
普段から鍛えていること、数をやること、
のふたつしかないと思っている。
もちろん、
ひとつの筋トレだけじゃ筋肉は総合的につかないし、
前の筋肉が使えたからと言って、
今その筋肉は役に立たないかもしれない。
そうした、総合的な場数を踏んでて、
どんなことにも対処できて、
しかもクオリティが落ちないことを、
物語筋肉がついている、という風に表現しようか。
筋肉はいつ使うか分らないものだが、
いざ使うときに足りないと役に立たない。
保険みたいなものですかね。
その脚本家に物語筋肉があるかどうかは、
何回か改定させないとわからない。
一回書ける人はいる。
何回書き直しても、第一稿を超えないものしかかけなかったり、
書き直すたびにひどいものになっていくならば、
筋肉が足りなくて溺れているのである。
プロデューサーは「こいつでは足りない」と判断するべきなのだが、
ついてるプロデューサーがへぼなときのほうが、
最近は多いと思う。
だから最近の映画はどんどんダメになっていく。
ハリウッドなんてつぶれたやつはそれまでのギャランティーをちゃんともらい、
次また声がかかる仕組みになっている。
なんせ最終稿に名を連ねなくても、
他人のものを改定したり、
オリジナルを書いて声がかかれば開発会議に参加できるわけで、
それだけで食っている人はたくさんいるらしい。
そういう風に脚本家市場がならないかなあ、
と僕は思っているが、
いまだに日本の業界は、
「コネがあるかどうか」でしか人を見ない人ばかりで、
実力を見ない人が多いので、この田舎者が、
と思うことは多いね。
まあそんなことは、
物語筋があれば乗り越えられる。
溺れずに死なないために、
今日も何かを書こう。
数稽古だけが、冬を乗り越えられるのだ。
2022年12月26日
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