なぜ誰も教えてくれなかったのこのこと?
水(現代語では「みず」表記)の歴史仮名遣いは「みづ」である。
「つ」が水っぽい何かだ。津は水辺や水の多いところの意味だ。
「み」はだいじなものの接頭語だろう。
じゃあさ、和歌の「思ひつつ」というのは、
「思うことですよ」「思いながら」ではなく、
「思いが水のようにあふれているさま」なのでは?
今薙刀式で、歴史仮名遣いの議論をしてるんだけど、
水がみずではなくみづだと知って、
根本的な理解が一つできたんだよね。
君がため春の野にいでて若菜摘む
我が衣手に雪は降りつつ
というのは百人一首のひとつだけど、
これを「降りながら」「降っていることよ」
なんて訳すのは生ぬるいのでは?
「降っているのを見ると、
あなたのことを思う感情が止まりません」
くらいに訳さないと、
「つつ」(水+水)の感情を表現できないのでは?
もちろん現代語の「しながら」の意味もあるだろうが、
掛詞になってるんでしょこれ?
「AをしながらBをしてるのですが、Aが溢れ出るのよ」
の形式が、A〜Bしつつの「つつ止め」じゃないの?
そして水のように溢れるのは不満ではなく、
「会いたくて震える」だよね。
だからこの若菜摘むは、
「わーい摘んだよ、今から若菜汁でもつくるね」
という新婚さん状態ではなくて、
「あなたのいないところで若菜を摘みました。
一緒にいたら若菜汁を頂けるのに、
どうしてあなたはいないのでしょう。
私の袖に雪が降って、心が乱れます。
あなたへの思いが抑えられません」
という状況のことでは?
「袖を濡らす」のは「あなたに会えなくて寂しくて涙を流す」
でよく使われる表現だから、
「よっしゃ、袖を濡らすのは平凡やから、
雪積らせたろ!」という新しさがこの歌だったのでは?
「ほほう、雪が積もるという新表現なのに、
袖を濡らすことと同じ意味になっている、
すばらしい」こそが、
この歌へのストレートな感想なのではない?
で、「白い雪が積もる袖と、若菜がある緑の状況か、
白と緑の、なんという静かで美しくて切ない光景か」
と読むのが「つつ」を味わう解釈では?
「あなたへの思いが降り積もるようです」
くらいにマイルドに訳しても、
まだ訳し足りないと思う。
洪水のようにどっと出るよりは、
じんわりと水があふれている様だとしたら、
「降っている雪を跳ね除けるほど、
思いが止まらなくなってきました」
くらいに訳さないと、「つつ」を訳しきれていないのでは?
現代語の「つつ」では、
その水がたくさんある様は失われている。
何かをしつつ何かをするみたいな並行動作レベルだ。
それは「つ」のどこにも「みず」がないからだね。
むしろ和歌に込めるならば、
水取って、と私を見ずに言う
ベッドの中の私の居場所
的な、水と見ずを掛ける方にしか使えないではないか。
(今適当につくった)
これでは語源と反するな。
ふむ、歴史仮名遣いの人たちの、
文化の伝承の途絶えという主張を、
ひとつ理解したぞ。
こういうことを、歴史仮名遣い主義者は、
どんどん主張しないのはなぜか?
歌心がないのかな?
意味もわからず保存したって生きた伝承にはならないよね?
じゃあすでに伝承は死んでるのかな?
それとも俺の過大解釈?
古典に詳しい方教えてください。
「つつ止め」だけでググっても教科書的な説明にしか辿り着けなかったので。
(追記)
よく考えてみると、
「これからあなたに会うのだが、
もう待ってられないくらい、
あなたへの思いが溢れています、
いっぱい若菜摘んじゃった、
袖に雪が積もってるなんでどうでもいいから早く!」
くらいのシチュエーションかもしれない。
内心は乱れているが、
平静を装って静かに摘んでるだけ、みたいな。
あなたに会えなくても、これから会えるのでも、
あるいは今その場所にいたとしても、
水のように湧き上がる様は、
恋した人ならばわかる感情だと思う。
その、内心が湧き上がりすぎて、
外面を保てなくなる感じが、
詠まれているのだと「つつ」から感じたという話。
ちなみにweblioから引くと、
F〔動作の継続を詠嘆的に表す〕しきりに…していることよ。▽和歌の末尾に用いられ、「つつ止め」といわれる。
にそのニュアンスが、
「しきりに〜していることだよ」とあるね。
そんなんじゃすまんやろうに。
もっとドラマティックに訳すべきでは?
2022年12月10日
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