野球や相撲は開いた視点なのだが、
サッカーは閉じた視点のような気がしていて、
それは専門用語の日本語へのなじまなさと関係あるなあ、
などと思っている話を薙刀式の外来語の話題で書いていた。
http://oookaworks.seesaa.net/article/494623825.html
で、それは顧客の囲い込みという、マーケティングの手法に関係していると思う。
囲い込みは、
僕は宗教の洗脳と同じやり方であると考えている。
いったん囲い込みの中に入れてしまえば、
「その色一色に染まっている」という世界だから、
その色に染まることが正義のようになる、
という感覚になってしまうからだ。
宗教の洗脳合宿や、
あるコミュニティの祭りとか、
ファンの集いとかも、
同じやり方だと思われる。
マーケティングは、
市場を固定するとともに、
市場の死を決める。
それ以上の客が来なくなってしまうからだ。
ファン商売に特化してしまった結果、
世の中の普通が分らなくなってしまう、
閉じた商売になると思う。
映画はまだマス商売であるが、
マーケティングとか言い始めてから、
どんどんと市場を狭めていっているように思う。
誰向けとか、ターゲットは、とかやっていると、
表現が狭くなり、
開いたものではなくなる。
閉じたものになってゆく。
囲い込みは楽だよ。
好きな者同士で楽しんでいるだけでいいからね。
ヲタクのファンの集いとかはたいていそうだ。
開いた商売は難しい。
どんな人でも引き込める、才能が必要だ。
でも、その才能のきらめきがない限り、
コミュニティを形成するほどのファンもつかないよね。
卵と鶏のようなものだ。
でも最初にマスありきでないと、
扱う範囲は最初から狭くなっていき、
商売の寿命がそもそも限界つきになってしまう。
僕は、すべての人に届くようなものが、
芸術であるべきだと思っている。
だから、
囲い込みは否定する。
囲い込みは、
同室の者にしか伝わらない符丁を使って、
仲間意識をつくりあげる。
言葉というのはそのために使われる道具である。
宗教にはそれ専用の用語が多い。
ヲタクファンの集いにはファンしか分らない言葉が多い。
同じことだと思う。
言葉を理解しない者を仲間外れにしやすく、
内輪の結束力を強くする力がある。
サッカー(とくにJリーグ)にはそれを感じる。
客観的視座は、
そうした閉じたところでは発達しない。
もっと広く見ろ、といってもなかなか難しいから、
「おかんに伝わる範囲はどこか」
ということで考えろ、といつも思っている。
どんな細かいことをやろうとも、
おかんに伝わる部分こそが、
まるで関係ない他人に伝わる、
いちばんの肝になるべき部分であると。
そしてそれが弱く、
囲い込みの論理で動いているならば、
弱い娯楽であると僕は思う。
つまり、強い娯楽とは、
囲い込みの必要がない、
ふつうの人でも振り向いてしまい、夢中になる娯楽のことである。
専門用語は必要がなく、
ひらいたコミュニケーションができる必要がある。
今映画広告がひどいのは、
開いたコミュニケーションの出来ない人が、
宣伝部にいるからだろう。
閉じた娯楽に、映画はなるべきではないと思うがね。
あなたのストーリーは開いているか?
囲い込んでいるか?
「それを知らないと分らない」ようになっていないか?
日本のサッカーみたいなものは、
映画にはならない。
2022年12月27日
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