2023年01月05日

絵をどれだけつなげられるか

小説よりも、シナリオに要求されることは、
これだと思う。
でも「絵が浮かぶ小説」のほうが、
絵が浮かばないやつより上等だと思うので、
結局どの場合でもこれは大事なことだと思うが。


この場合の「絵」というのは、
普通の絵ではなくて、特別な絵のことである。
新しくて、その物語に特有のものだ。

分りやすい例は「マトリックス」で、
弾丸をよけるバレットタイムや、
赤い薬と青い薬の場面や、
カンフーで戦う場面や、
白バックで銃と弾丸がラックに入って出てくる場面や、
コードの象徴である緑の文字などは、
マトリックス独特の世界観をつくり、
オリジナリティに強力に働いている。

で、
じゃあ、新技術によって新しい絵をつくればいいか、
というとそれだけではない。
ただ新しい絵をかいても、
ストーリーでは記憶に残らないことが多いんだよね。
新しい絵をやるときは、
「そのストーリーで重要な箇所」でやるとよい。
重要な箇所が印象的に残るために、
逆に新しい絵を利用する、
という言い方のほうが、
考えやすいかもしれない。

逆に、こういう新技術が出来たから、
これを使って何かできないか、ということが多いけど、
それは主客転倒だ。
こういうことが出来るからこれを表現するのではなく、
こういうことを表現したいから、そのために新しい技術をつくる、
ということが正しい。
それは「必然性」という、一番納得するところに関係する。

T2000の液体金属ボディは、
それをしたいからそうしたのだ。
もともとアビスにあった、
透明で反射の多いレンダリングという基礎はあるものの、
「それをしたいからそのような表現をつくった」
ように見えたから、
よかったのである。

(当時のCGだけでできないことはたくさんあり、
たとえば弾丸の跡とかは、
実際のプロップ(小道具)でつくっているわけだし。
そうした、表現したいものを工夫してつくっていることが、
創作というものだ。
あるものを使うために理由をつくることは、
公共工事である)



さて、
では新しい絵なんてなかなか思いつかないよね。

でも、完全に新しくなくてもいいんだぜ。
「その絵をその象徴に使うことが新しい」
であれば、
それは新しくなるんだよね。

たとえば、
ウッディアレンの「アニーホール」では、
「冷蔵庫の裏に生きたロブスターが入り込む」というギャグがある。
それを彼女とやっておいて、
彼女と別れたあとに、
「あたらしい彼女とそれをやってみたが、
あの時ほど楽しくなかった」
という悲しい場面があるんだよね。
それがとても出来が良い。
冷蔵庫の裏にロブスターが入り込んで大騒ぎすることが、
楽しかったことの象徴になるなんて、
誰も思いつかないよね。
これがオリジナリティな絵による場面ということだ。

もうひとつ好きなやつは、
「アパートの鍵貸します」の、
「パスタをゆでて、それを引き上げるときに、
何もないからテニスラケットで引き上げる」
というこれまた彼女と暮らしていたときの珍場面を描いておいて、
彼女が出ていったあとに、
荷物の中からテニスラケットが出てくるわけだ。
これは「とんでもなかったが、とても楽しかったことの象徴」になり、
これが彼女を追いかけるきっかけになるようになっているわけ。

これは、絵による象徴になってて、
しかも新しいんだよ。


絵による表現といっても、
「誰かと誰かがしゃべっている」という場面は、
なにも新しくない。
しかしたとえば、
「滝の裏と表で大声でしゃべりあう」ならば、
新しい場面になる。
それがただ奇をてらっただけでなく、
何かしらの意味があれば、それは何かの象徴になり、
新しい場面になるわけだ。

たしかソダーバーグの「トラフィック」だったと思うのだが、
「マフィア同士がドラッグの取引をするために、
裸(武器を所持できないようにして)で、
日曜の家族がたくさん幸せそうにしているプールで、
話す」
という場面がある。
これも、単なる取引の場面(バーとか、地下とか、路地裏とか)でやるよりは、
とても面白い場面であったが、
何かを象徴しているわけでもなく、
それでおしまいの場面だったのがもったいなかった。
だからいまいちこの映画だったか自信がない。


CGの発達によって、
撮れない絵はなくなったかのように見えるが、
結局それをどう使うかでいえば、
「どのストーリーをどの絵で象徴するか」
という、シナリオの基本に戻っているとも言えるんだよね。

好きだった女が親友と結婚するから、
自分は式に参加せず、
教会の屋根で鐘を鳴らす役をやる、
という定番のやつだって、
その主人公の気持ちの象徴だから、
絵になるわけで、記憶に残るわけだ。

それは新しくないけれど、
そういったものがあるとぐっとくる。


で、本題としては、
そういうものがいくつあるか?だ。

絵によるストーリーの象徴場面、
新しい絵によるストーリーテリング。
こういうものを積極的に入れよう。
別に新しくなくてもいい。
何かをやれば、
それはストリーリーの絵的な記憶(イコン)になる。
つまり、
ストーリーを思い出すとき、
その絵のつながりで記憶に残るわけだね。


たとえば、ファミレス限定のゆるいストーリー、
「THE 3名様」というのがあった。
これは、絵による象徴をまったく使えないので、
何も記憶に残っていない。
もちろん、そこにある小道具や何かをつかえることはあるが、
それが新しい使い方になるだろうか、
とどれだけ考えても新しいことは出てこない気がする。
せいぜい、コーヒーのポーションで塔をつくるとか、
そういうものでしかない。
これがストーリーに関係すればまだあるが、
単なる暇つぶしの象徴になってしまったため、
何も記憶に残っていないんだよね。


鮮烈な例と、だめな例をあげた。

ただ喋っているだけではストーリーにならない。
何かを象徴すればよい。
小道具で使えるのは、コインなどか。
「裏を表に変えるのさ」みたいに使えば、
それはただそのセリフをいうよりも絵になっているよね。
そういうことだ。
それは新しい使い方ではないが、
それがとても大事な場面であるならば、
ただセリフをいうよりも記憶に残る。
そしてそれがとても重要な場面であるほど、
「コインをうまく使った」という記憶になるだろう。

そういう場面が、いくつ連なるか?ということなのだ。

つまり、そういう絵による場面をつなげると、
大体ストーリーになっていることが理想だぜ、
ということを言おうとしている。


あなたのストーリーはどのようなものだろう。
おそらくプロットはあるだろう。
それを、
どのように絵で語るか、
ということを考えよう。
重要でない場面は、まあどうでもいい。
最悪説明台詞で切り抜ければよい。
しかし重要な場面を、どう絵で象徴するか、
ということを考えるとよい。

アングルやライティングやポージングはいらない。
色設計や光設計もいらない。
動作や芝居の妙もいらない。
ただ、
何を何で象徴するか、があればよい。
ただのハンドサインだけでも、
それを象徴することになる。
T2の溶鉱炉に沈むサムズアップは、
それだけで人類と機械が分りあえたことの象徴である。

これを軸にターミネーターシリーズは、
人類と機械の和解を描いてエンドになると思っているのだが、
まったくそこに届いていなくて困るよね。



絵による場面を考えよう。

何をどのように機能させるか、
という絵で考えることでない、機能的な考え方である。
とても抽象的なわけだね。
それは、シナリオでしか考えられないことだ。

現場でとっさに小道具を使うこともあるけど、
綿密に考え、計算し、首尾一貫させるのは、
シナリオ段階だけだね。
posted by おおおかとしひこ at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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