2022年12月18日

インディアンvsゴールドラッシュ(「アバター2」評3)

すっかりアバター1の話を忘れていたのでwikiで再確認。
(どうせキャメロンだから2だけ見ても大丈夫やろと踏んで見た。
もちろん全然OKだった)

歴史の浅いアメリカ人にとって、
インディアン(現ネイティブアメリカン)を征服していく様と、
西へ西へとゴールドラッシュで向かう西部劇は、
神話の時代の出来事くらいに思えているのかな、
と感じた。

以下ネタバレで批評。


日本人にとっての時代劇は、
せいぜい戦国時代と江戸時代で、
鎌倉や平安が描かれることは滅多にない。

ただ江戸時代は研究されすぎてて、
この時代にあれはないとか、
この年の天気はこうじゃないとか、
その日の天気まで間違うと怒られるらしい。

だからそうしたツッコミを避けるために、
戦国時代や江戸の初期にすることがあるそうだ。

鎌倉殿の13人が面白いらしいけど、
それって結局、
「ここじゃないどこかの話が見たい」
「全く知らない所の話だと感情移入出来ない」
の二律背反をうまく満たしているんじゃないか。

江戸時代はファンタジーにならない、
という感じだろうね。

もちろん、奈良飛鳥を舞台にしてもいいんだけどな。
あるいは出雲の国譲り神話を、
出雲の部族と天皇の部族との戦いの話にしても面白いんだろうが、
天皇の一族を描くと右翼がめんどくさいか。

じゃあ架空の部族同士だと、
「全く知らない所の話だと感情移入出来ない」
になってしまうんだよな。



アバターのシリーズは、
「ここじゃないどこかの話が見たい」
という欲望に対して、
フルCGの見たこともない世界を提供する。

ただ「見たこともない」かは微妙で、
ジャングルに住むベトナム人と、
アフリカ人をごっちゃにしたような感じで、
生き物はFF的だった。
ドラゴンに乗るのはパンツァードラグーンかな。
まあドラゴンライダーみたいな話は沢山ある。

なので、一定の枠組みを出ないから、
3Dに踏み切ったのだろう。
これなら見たことないでしょと。

だけどその異世界は、
なんとなくインディアンの世界観をベースにしている気がする。

インディアンの世界に触れ、
その世界に同化して俗世間を離れる白人の話は古典的にたくさんある。
映画だけでも「ディアハンター」「ダンスウィズウルブス」などだ。
ジャングルに溶け込む話なら「ターザン」だ。
そういえばフラワーハンターといって、
ジャングルの奥地にしか咲かない花(蘭のたぐい)を、
求めて実際にジャングルに入った経緯は実在する。

この辺の話をごちゃっと煮込み、
架空のインディアンに対して、
貴重な資源を入手する悪役としての人類を描き、
人類側を裏切ってインディアン側につく、
という話は、
アメリカ人にとっての神話なのかな、
と思ったのだ。

エイワの木は、ユグドラシル的で北欧神話的だが、
そのへんもFFっぽいんだよな。


つまりアバターにおける「部族」は、
「白人社会以外のイメージとしての部族」
みたいなののごった煮だと思われる。
基本はインディアン(今回もインディアンみたいな声の出し方が多かった)
だけど、アメリカ人の描く日本が色々な誤解のごった煮になってる、
みたいに、「部族」というイメージのごった煮のような。

「ここじゃないどこかの話が見たい」を、3DCGで。
「全く知らない所の話だと感情移入出来ない」
を、インディアンvsゴールドラッシュの構図での、
インディアンに同化して白人を裏切る神話で。

アバターはざっくりいうと、
このような構造をしている。

あとは、
インディアン側と、人類側にキャラをつくり、
「橋渡しするキャラクター」を作ると良いわけだ。

1では主人公が、
2ではスパイダーがその役目を果たすはずだが、
今回は微妙かな。まだ大活躍には至ってないが、
たぶんその役目を持っているのだろう。


で、インディアンだけじゃアレだなってなって、
今回は変化球として海の民(サモアっぽい)を出してきたわけだね。

今後、砂漠の民や雪国の民や山岳の民が、
登場する可能性はなくもない。
つまり、エキゾチックであればあるほど良いから、
白人にとっての「部族」に見えるやつならなんでもよく、
CG映えするゲームステージ的な場所が選ばれるだろう。

ラクダに乗って白く空気を含む服を着る民族、
獣の毛皮を纏って斧を振るう船に乗る民族、
ラバに乗って崖のような所で塩を交換する民族、
などとインディアン的な話になっても、
僕はとくに驚かない。

アメリカ人にとっての神話の時代を、
CGで再構築してるんだな、としか思えないからね。

あとなんだろ、宮殿に住む王族と奴隷階級の民(カレーを食う)とか、
刀を腰に巻く戦闘民族と定住農耕民と忍びの民が出てきても、
驚かないだろうな。
彼らから見たらインドとベトナムと中国と韓国と日本は、
全部アジアで同じらしいからな。

いずれにせよやることは、
西部開拓時代に起きたことの模倣、再解釈のような気がしてきた。

地球人類が二派に分かれている展開も可能だろう。
穏健派と侵攻派に分かれて、
穏健派とナヴィ族が組んで、侵攻派を倒していく話になるかもしれない。

今回の敵がナヴィ族に同化し始めて、
主人公に味方する展開も、
日本のアニメ好きなキャメロンならありえるかもね。



で、
なんかそれって、
あんまり面白くないなあって思ってしまったのだ。

特撮による見たこともない世界と、
神話に近しい構造で人類共通の何かを描くこと自体が、
スターウォーズ(1。現ep4)で見たんだよな。

だから、
「あれ? 映画って70年代から、
たいして進歩してないのでは?」
って思ってしまったんだよね。

テクノロジーはアホみたいに進化したが、
「テクノロジーを使ってストーリーを語ること」
自体が進化してなくて、
同じ所でグルグル回ってる気がしてるんだよね。

またトップガンと比較するけど、
トップガン2における、
見たこともない世界とは、
戦闘機のリアル飛行バトルである。
これは極限まで頑張ったと思う。
で、それでやったことは、
「わだかまりの解消」というドラマだった。
その、組み合わせが良かったと思う。

アバターはだから、
この多様性の時代に、
多様性を嫌うことを悪とするべきではないかなあ。
でもナヴィ族は母なる意思のもとに、
人類補完計画のようにひとつの意思になってしまっている。
真の多様性は、襲ってこない限り一緒に暮らすということだ。

森の民と海の民の考え方が異なり、
そのことで揉める、ということを正面から描けば、
単なるインディアンサモアストーリーよりも、
面白くなったかもしれない。


なんだか浅いなあと思うのは、
モチーフとして使っているだけで、
テーマ性が薄かったからだ。

今回のテーマは家族のストーリーだけど、
オカンが強すぎて母親をちゃんと描けてないと感じた。
息子が死んで泣くだけの役になってたな。
キャメロンは昔から戦う女を描くのが好きだけど、
ビジュアル的に女なだけで、
中の人格に女を感じることが少ない。
発想が男なんだよな。
時代が違えばキャメロンはバ美肉おじさんになってたかな。
でも中身が男だからアイドルとしては振る舞えないだろうな。

そんなことを言ったら父親の話もなさすぎたのだが。

「インディアンに同化する」まではよく描かれた神話。
その後家族をどう経営していくかを、
うまく描いた神話がないから、
レファレンスできなかったのだろう。
だとしたら、そこにオリジナリティを出すべきだったのに、
転校生の子供いじめみたいなレベルに収まってしまい、
鯨という飛び道具で納めたのが逃げを感じたな。

父親だって、族長はああは言ってるが俺たちは違う、
みたいな奴らにトラブルに巻き込まれてもよかったのに。


もう、どんなCGが来ても驚かないなあ。

俺パンドラが勝手にVRの世界だと勘違いしてたわ。
CGが発達しすぎてて、CGが実在に見えない。
カメラで撮ったiPhoneの世界と、
3DCGのVRの世界に二極化していて、
CGが実在に合成されて存在してると思ってください、
というCG映画の手法に、
リアリティを見出せなくなってきている。
むしろバ美肉おじさんvsバ美肉おじさんの、
醜い争いのストーリーが見たいなあ、
などとよく出来たCGを見ながら思っていた。


結局、どんな「見たこともない観光要素」がきても、
中身は人間の骨肉の争い。
それが映画なんだよな。
そこを更新しないと、レファレンスに巻き込まれて終わりだと思う。
posted by おおおかとしひこ at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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