そういえば「芳賀ゆい」ってのがいたなあ、
と思い出して調べてみたら、
なかなか面白い社会実験であったことを知る。
深夜ラジオ企画で、「架空のアイドル」をつくる企画だったんだね。
だから顔を出さないという条件で、
しかも複数のスケジュールの合う人が演じていたそうだ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/芳賀ゆい
で、これって「キャラクター」ということを強く考えさせられるよね、という話。
我々が書くフィクションというストーリーでは、
それが実録ものでない限り、
すべて架空のキャラクターが登場する。
それの設定を煮詰めるのは大変たのしい。
架空の人格をつくることは、ある種の変身願望かもしれない。
「もしそういう人がいたら」を想像するだけで、
人は現実とは違う、別世界へ飛ぶことができるわけだ。
リスナーの近くて遠い存在、アイドルが題材として選ばれたのも当然だろうね。
設定がかなり細かい。
これらはいろいろなアイデアから、煮詰めていったのだろう。
リアリティというか、
「当時のアイドルのプロフィールとしてのリアリティ」がものすごくある。
ちょっと嘘くさい、ややご都合というニュアンスもちょうどいい塩梅だ。
で、
当然なんだけど、
これらは「架空のキャラクター」が出来たらおしまいなんだよね。
つまり展開が存在しない。
すなわち、出オチなのである。
完成させるまでが面白いだけで、
それから先はなにも考えていないわけ。
生んだはいいが育てることまで考えていなかったダメな母親のようだ。
アイドルとしてホリプロが入ってきて、
実際に動きはじめてからはつまらなくなったので、
早々にやめてしまったのだろう。
それはたぶん、
「想像していた時のほうが面白かった」という体験だったのではないかなあ。
さて本題。
初心者あるあるで、「キャラを想像して設定を書いてしまってそれで満足してしまう」
という現象がある。
まさにこの芳賀ゆいと同じ現象だ。
架空が受肉する過程が面白いだけで、
いざ受肉したら何をするわけでもなく、
熱が冷めておしまいになってしまうやつ。
これはつまり、キャラメイキングが楽しいだけなんだよね。
最初に変身願望の一種と書いた。
すなわち、
「今の自分という文脈と人格から離れて、
架空の文脈と人格に自分をひたす」
ことが面白いだけなんだよな。
それはストーリーを書くこととは、
まったく違うことであることを知ろう。
ストーリーを書くことの一部ではあるが、
全部ではないのだ。
それどころか、
ストーリーを書く労力にくらべて、
たぶん1/10もないくらいの労力でできる。
だから初心者むきのお遊びとして、
ちょうどいい題材かもしれないね。
でもストーリーを書くことは、
架空の人格をつくる遊びとは、
実は関係なくても進められる。
男Aとか、女1とかの名前でだって、
話はいかようにも進められる。
とくに設定がなくても、医者とか、秘書とか、
ボクサーとか、ある種の職業的人格だけで、
話をつくることだって可能だ。
(とくにショートストーリーはね)
そのうえで、名もないキャラクターではなくて、
何か設定のある架空のキャラクターがそれを体験したら、
という風につくることが可能だ。
つまり、
キャラクターメイキングと、
ストーリーメイキングは、
独立に進めることが、
原理上できるということ。
なんなら、別の作者のものを融合させてもよいということだ。
それがベストの方法とは限らないが、
原理上可能であれば、
いつかだれかがそれを実現するかもしれない。
(日本映画では、キャラクターは俳優が担当する場合もあるよね。
脚本ではフラットに書いておいて、
有名俳優がどう味付けするかを楽しむこともよくある。
まあ手抜きともいえるが)
キャラクターだけならば、
いくらでも考え付くのではないか。
無責任に服を着替えるように、
変身願望を満たすようなキャラクターをつくることは、
たぶん誰もが出来ることだと思う。
それとストーリーが違うことは、
理解しておくといいだろう。
実際、
芳賀ゆいのプロジェクトは、
キャラクターはあってもストーリーはなかった。
素人の限界というか、ストーリーテラーの不在というか、
まあそこまでどまりだったんだなあという事だ。
覆面〇〇にはロマンがある。
人はどこかしら変身願望がある。
変身願望を満たすのは変身ヒーローや魔法少女だけではないということだ。
「現実の文脈や人格と関係ない、
なるべく遠くの人間」だったら、
実は何でもいいということだ。
これは感情移入とはだいぶ遠いところにいるよね。
つまり、
まったく遠いところの文脈に変身願望を満たしながら、
しかもそれに感情移入する、
ということは人間に可能だということだね。
2023年01月20日
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