2023年01月01日

ハラハラさせろ2

ハラハラするのは、原始的な失敗への恐怖だけではない。
テーマの確定がゆらぐ、その不安定さにある。


分かりやすく正義と悪としようか。

この戦いで勝利した者が正しいわけだ。
みんなで協力して頑張るべきと主張する正義と、
能力のある者が弱者を搾取するべきと主張する悪がある。

正義が負けそうになる。
となると、
「世の中では悪の方が正しいのかも知れない」
と皆が思うわけだよね。
このまま負けて終わったら、
正義側の主張は間違っていたとなり、
悪の主張が未来永劫正しいとなってしまうわけだ。
だからハラハラする。
「そんなはずはない」という感情移入と、
「このまま負けてしまうのか?」という不安が、
観客の心の中で拮抗するわけだ。

どっちなんだ?
どっちの主張を言いたくて、
この映画は終わるんだ?
ということに不安になるわけだ。

もちろんハリウッド映画ならば、
正義が勝つから、
これは一種のフェイントというか、
安全なスリルであることはわかっている。

だが舞台が現代の日本なら、
そうとも限らないかもね。
上級国民だけがアベノミクスを吸い、
庶民に降りてきていないこの感覚は、
悪の主張が正しいのだ、
お前ら這い上がるチャンスはもうないぜ、
という主張を正しいとする気がする。

いや、そうじゃないんだ、
という正義の主張は、だから難しい。
今の日本に正義が見えないのは、
悪が正しいかもなあ、と皆がなんとなく思っている、
この空気ゆえかもしれない。

それでも、
少なくともこの物語の世界観では、
正義側のほうが、安定して長く続くことを示せれば、
正義が勝つことを示せるわけだ。
これはいわば部分証明のようなものだ。

この部分証明が成功するのか?
それとも、所詮現実が正しいのか?
のどちらが物語の結論であるかわからないときに、
人はハラハラするのである。

「着地点がわからない」という言葉で示される。

これはずっと分からないのは、
単なるグダグダの話だが、
一瞬分からなくなり、
迷いが生じることが、ハラハラである。
そしてそれは、意図的に仕込まれた、
ジェットコースターの一部なわけだ。


失敗するかも知れないという不安は、
人生で自分の主張が通らないかも、
という不安と同じことである。

仮に、
ジャンケンで勝った方の主張を、
これから一年間正しいと見るとしよう。
正義の側の人と、悪の側の人がジャンケンをする。
確率1/2だ。

そして悪の側が発明をして、
正義の人の手をAIが予測して、
人間より速く勝てる手を出すとしよう。
そう、負けるかも知れないわけだ。
不安しかなくなり、
勝つ手段がなくなる気がするわけだね。

勝てないという不安(具体)だけでなく、
正義が負けて、搾取がただしい(抽象)とされてしまうことが、
不安なわけだ。
つまりテーマが危機になる。

この物語はそのように結論づけて終わってしまうわけなのか?
とハラハラがやってくるわけだ。
しかし正義側には秘策があり、
AIを狂わせる奇想天外な方法を見つける、
などのようにしていくと、
「それができるの?」と、観客は前のめりになってくわけだね。

具体は単にジャンケンなのに、
それがどんな抽象をかけたものなのかを定義づければ、
その具体の勝ち負け
(ジャンケンだろうが殴り合いだろうが、
自転車レースだろうが、バスケだろうが)
が、その抽象の勝ち負けになってしまう。

だから、ハラハラするのである。


映画「THE FIRST SLAM DUNK」では、
各人の主張のために、
皆バスケをやっている。
バスケというゲームをやっているのではなく、
その勝敗が、自分の主義主張が正しいという表現になる。
つまり、広い意味での自己主張を、
彼らはやり合っているわけだ。

三井が3Pを決めるたびに、
自暴自棄から不良になった誤りを正して、
立ち直ることが正しいと証明される。
流川がパスを出すたびに、
自分一人で戦うのではなく、
チームで戦うことが正しいと証明される。
花道が活躍するたびに、
理屈じゃない何かが支配していることが証明され、
逆転とは理屈でないことが証明される。
(ゴリのサブプロットは今回は省略されている)

そしてリョータがゾーンプレスを抜くたびに、
なぜ彼がドリブルを一人でやり続けてきたのか、
その価値が証明されるわけだ。

我々はそれを見たい。だから熱くなる。
そして「もうそれが正しくない」と証明される=負けるかも、
と不安になるから、ハラハラするのだ。


感情移入とは、
その人物の事情に同情して、
その人生観に共感することである。
その事情を解消して、
その人生観の勝利を見たいと。

それが不安になることは、
その人生観が正しかったと証明できないことだ。

我々はジャンケンの勝ち負けではなく、
バスケの勝ち負けではなく、
人生の、
主義主張の勝ち負けを見て、ハラハラするのだ。


このようにストーリーを作れれば、
ハラハラは揺さぶりとして楽しくなるだろう。

それが逆転逆転また逆転のシーソーゲーム、
バスケを持ってきたから、スラムダンクは面白いわけだ。
posted by おおおかとしひこ at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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