2023年01月30日

その気持ちを書くんじゃない、その気持ちに至った事件を書くんだ

なかなか難しいことなのだが、
表現というのは、
「気持ちをえがくこと」ではないんだよね。


自己表現とか、表現のすばらしさ、
などという言葉が誤解を生むのだが、
Aという気持ちを感じたときに、
Aをなんとか言語化して、
〇〇で〇〇な気持ちなのです、
と表現することは、ストーリーによる表現ではない。
それは文章表現とか、部分的な表現に過ぎない。

ストーリーによるAの表現というのは、
まだ世界で誰も表現したことのない気持ちAを、
言葉で表現するのではなくて、
事件や行動や結果や焦点の変化といった道具を使って書くことを言う。

つまり、
「私はAという気持ちである」でなくて、
ある事件が起きて、そういう事情で、
そういう結末になれば、
「この気持ちを表す言葉は知らないが、
誰もが同じ気持ちになる」
になるべきなのだ。

つまり、Aを直接言葉で表現する必要はない。

間接表現というのは、そういうことなのだ。


ここを勘違いしていると、
いつまでも、Aを表現しようとしてしまうだろう。
言葉で説明しようとしてみたり、
CGでトリック映像をつくってみたり、
誰かに解説させてみたり。

そうではない。
Aという言葉で表現できないその気持ちに、
Aという言葉を一切使わずに、
全員がそれを体験するとAという気持ちになるような、
そういうものをつくるのだ。

世界でまだ誰も表現していないその感情は、
言葉という形式をとっていない。
だから、ストーリーという形式で、
実現させてあげるのがよい。


恋人を失う気持ちを、
言葉で表現できまい。

これまでのラブストーリー、
幸せだったことや喧嘩したことや、
どきまぎしたことや、
小さいことだけどずっと覚えておこうと思ったことがあって、
突如その線が途切れることで、
表現するとよい。

「これは恋人を失った悲しみであり、
ショックであり、喪失感であり……」
と、言葉で表現する必要はない。
ただその感情に打ちのめされていればよいのだ。

その感情に至るように、
恋人との日々を、ビビッドに描ければよいだけだ。


そのようにして、
言葉になっていない感情は、
ストーリーで表現される。

もしストーリーで表現できずに、
「この感情は〇〇〇という言葉で表現できる」
と分ってしまったら、
ストーリーでやる意味も必要性もないだろう。
「これは〇〇である」といえばいいだけだからだ。

そうではなく、
ストーリーでできることは、
もっと複雑で、
言葉にならない何かだ。

その何かを、無言で表現できるのが、
ストーリーのいいところだ。



「気持ちをえがく」というのは、
その点Aを描くことではない。
そこに至った経緯を描くことである。

線で描くとは、そういうことだ。
だから、
その気持ちを「俺は今〇〇〇である」などというのは、
野暮以外の何物でもない。
posted by おおおかとしひこ at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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