2023年02月08日

それをそこでいう必要はない

リライトのときにありがちなこと。
余計なことを入れてしまうこと。
なんでそれをそこで言ってしまうのだろう。



もともと、
前にあったAが、暗示していた。(伏線)
だから後にあるBでは、
Aを繰り返す必要はない。

ここでAが起こっても、
皆まで言わずとも、Aだな、とみんなが理解できる。
前にあった伏線が効いているからだね。
逆に、ああ、あれがここで、とみんなは驚きながらこれを見ているはずだ。

この狙いが、
リライトを繰り返すと、忘れてしまう事が、
とてもよくある。


具体的には、
Bの場面で、Aだとちゃんとわからせたほうがいいのでは?
と心配してしまい、
「これはAなのである」と余計な説明を入れて解説してしまうことがある、
ということだ。

これは冗長である。
しかし、不安からこの冗長をやってしまいがちなんだよね。

その不安とは、
「私はこのストーリーを支配しているだろうか?」
ということだと思う。

ストーリーを支配しているならば、
それは前に言ったことが、ここでつながってくるんですよ、
そう、伏線だったんです、
としたり顔で笑いながら解説できるだろう。
しかしそれが不安になってしまうと、
忘れてしまいがち。


あるいは、読解力がない阿呆が、
その場面だけを見て、
「これだとAと言っていないから、Aを入れたほうがいいんじゃないか」
って心配したりすることがある。

これはよくない。
自信があるストーリーテラーでも、
そう言われると自信が揺らぐことはよくあるからだ。
逆にそれで揺らいでしまう人は、
客観性がないストーリーテラーである。
「いや、観客はここであったことを前提にBを見ているから、
皆まで言わずにAだと分るでしょ、
むしろAというのは野暮」
だと確信をもって言える人は、なかなかいない。
そうかな、と不安になってしまうからだ。


これを防ぐ方法はひとつしかない。
頭から「これを初見の人」として見ていくことだけだ。

それが出来ないと、これは分らないだろう。
しかしこれが実際かなり難しい。
それが出来ないから、
逆に不安というものがやってくるんだと思うよ。
部分的にしか見られなくなっていくからだね。



それは点ではない。
線である。

それが分っているのに、
つい点でチェックしてしまって、
線であったものを点に分解してしまう。

それは野暮だ。
線として娯楽になっているようにしよう。


「これはAと言わないと分らないのでは?」
という阿呆が来たら、
「ずっと前のここにAがあるので、
Bでも分ります」と言え。
それで「あーそうだった」となるなら、
そいつに読解力はないので、
一生意見は聞かなくてよい。

そうじゃなく、「これは忘れていたな」と言われたら、
前のAを、きちんと伏線として印象付けることをやるべきであり、
BでAをリフレインするような下手を打つ必要はない。


客観性を失うことは、
よくあることだ。
だからこの判断は難しい。

難しいが、ちゃんとやらないと野暮で終わっしまう。

だから二重の意味で難しい。
posted by おおおかとしひこ at 06:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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