リライトのときにありがちなこと。
余計なことを入れてしまうこと。
なんでそれをそこで言ってしまうのだろう。
もともと、
前にあったAが、暗示していた。(伏線)
だから後にあるBでは、
Aを繰り返す必要はない。
ここでAが起こっても、
皆まで言わずとも、Aだな、とみんなが理解できる。
前にあった伏線が効いているからだね。
逆に、ああ、あれがここで、とみんなは驚きながらこれを見ているはずだ。
この狙いが、
リライトを繰り返すと、忘れてしまう事が、
とてもよくある。
具体的には、
Bの場面で、Aだとちゃんとわからせたほうがいいのでは?
と心配してしまい、
「これはAなのである」と余計な説明を入れて解説してしまうことがある、
ということだ。
これは冗長である。
しかし、不安からこの冗長をやってしまいがちなんだよね。
その不安とは、
「私はこのストーリーを支配しているだろうか?」
ということだと思う。
ストーリーを支配しているならば、
それは前に言ったことが、ここでつながってくるんですよ、
そう、伏線だったんです、
としたり顔で笑いながら解説できるだろう。
しかしそれが不安になってしまうと、
忘れてしまいがち。
あるいは、読解力がない阿呆が、
その場面だけを見て、
「これだとAと言っていないから、Aを入れたほうがいいんじゃないか」
って心配したりすることがある。
これはよくない。
自信があるストーリーテラーでも、
そう言われると自信が揺らぐことはよくあるからだ。
逆にそれで揺らいでしまう人は、
客観性がないストーリーテラーである。
「いや、観客はここであったことを前提にBを見ているから、
皆まで言わずにAだと分るでしょ、
むしろAというのは野暮」
だと確信をもって言える人は、なかなかいない。
そうかな、と不安になってしまうからだ。
これを防ぐ方法はひとつしかない。
頭から「これを初見の人」として見ていくことだけだ。
それが出来ないと、これは分らないだろう。
しかしこれが実際かなり難しい。
それが出来ないから、
逆に不安というものがやってくるんだと思うよ。
部分的にしか見られなくなっていくからだね。
それは点ではない。
線である。
それが分っているのに、
つい点でチェックしてしまって、
線であったものを点に分解してしまう。
それは野暮だ。
線として娯楽になっているようにしよう。
「これはAと言わないと分らないのでは?」
という阿呆が来たら、
「ずっと前のここにAがあるので、
Bでも分ります」と言え。
それで「あーそうだった」となるなら、
そいつに読解力はないので、
一生意見は聞かなくてよい。
そうじゃなく、「これは忘れていたな」と言われたら、
前のAを、きちんと伏線として印象付けることをやるべきであり、
BでAをリフレインするような下手を打つ必要はない。
客観性を失うことは、
よくあることだ。
だからこの判断は難しい。
難しいが、ちゃんとやらないと野暮で終わっしまう。
だから二重の意味で難しい。
2023年02月08日
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