2023年02月14日

どうしてもそれを語りたい

となっているだろうか?


どうしてもそれを語りたいとき、
どんな手段を用いても語るのではないだろうか。

多少下手だったとしても、
多少まずい表現だったとしても、
とにかく語るためならば、
何を使ってもいいから語りたい、
という欲求があって、
だからラストまで書き抜けることになると思う。

途中で挫折することは多分ない。
あまり良い表現でなくて落ち込むことはあれど、
それしきで執筆が停止して、
挫折になることはほぼない。
だってどんなことをしても書きたいものだからね。


どうしてもそれを書きたい、という物語を書くべきだ。
これは受けるかなあ、
受けているらしいからこのパターンにしたけど、
なんてものを書いてもしょうがない。
それは熱がなく、
迫力も勢いもないだろう。
他人を巻き込むほどの熱量がないものは、
どうやったって巻きこめない。
誰かが何かを必死でやっているから、
見世物になるんだよね。
逆に、見世物というのは、必死でやっていないやつは、
あんまりおもしろくないよ。
カッコつけてすかしている大道芸人なんて、
こっちから願下げだよね。
もっと面白そうにやってくれないと、
こっちも盛り上がれないじゃんね。


で、「どうしてもそれを語りたい」という物語は、
どこまでの姿をしているだろうか?
というのが本題だ。

おそらく、最後までできているはずだ。
その物語の結果が出来ていて、
そのラストシーンの感じにみんなを巻き込みたくて、
どうしても書きたいんじゃないかな。
途中までしかできてないものを、
そこまでどうしても語りたい、
ということはほぼないだろう。
(頭の中の作業領域をあけたくて、
外に一回出す、みたいなことではない限り)

だから、
どうしても語りたい物語というのは、
ラストまでできていて、はじめてそのような衝動に取り憑かれることになるだろうね。

その衝動を持ちながら、
冷静になってみよう。
その勢いに巻き込めるには、
老獪なテクニックが役に立つかもしれないぞ。
ストレートに巻き込むのもいいけど、
テクニカルにその熱に巻き込むことをやってもいいのだ。
それでどうしても語りたい熱に巻き込んでいけば、
夢中になるものになるだろう。
(面白ければね)

どうしても語りたいという欲望は、
ある種の押し付けになる可能性もある。
たいして面白くないものを、
これを見ろと強制するものになる可能性もある。
だからテクニックを使え、というアドバイスは、
まあ分らなくもない。
でもどうしてもそれを語りたいならば、
最後まで書く根性はあるだろうから、
その勢いは、ずっと持っていたほうがいいぞ、
ということを書こうとしている。


どうしてもそれを書きたいならば、
なんとかして最後まで書くし、
そもそもラストが決まっているところへたどり着こうと頑張るし、
そのために多少は計画的になることが出来るだろう、
ということだ。

逆に、
どうしても書きたいものじゃないならば、
どこかで情熱が冷めて挫折してしまったり、
ラストが決まっていなくて迷子になったり、
計画的になれずに暴走したり、
することがとてもあるということだ。

まあまあこれは受けるだろうな、
というレベルに考えていると、
そのテンションまでしか巻きこめない。
だからハイテンションであれ。
嘘のテンションはバレるから、
ほんとうにテンションの上がる物語だけを書け。

そしてテンションの上がる原因は、
単なる点のシーンではなく、
物語全体そのものであるべきだ。

だからずっとコツコツ、最後まで書けるのではないか。

そうじゃないものは、
どこかで冷めてしまうと思うがね。
経験則。
嘘をつき続けられる人なら、その限りではないかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 08:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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