生理的な感覚というのは、
人によって異なる、という話。
仕事をしているときに、
飯を出前などで発注するとしよう。
大体は若い者がやってくれるのだが、
そのときに、その人の無意識が出る。
デブの発注は、大体多めの飯になることが多い。
「そんな食わねえよ!」ってなると、
「そうですか? おいしいのに」ともぐもぐ食っているそのデブを見ることになる。
逆に、
ちっさい女子の発注のときは要注意で、
足りないことが多い。
「きみはこんなカロリーで動いているのか」と驚くことがある。
その人たちは、
俺たちをいじめようと思ってその量を発注しているわけではないだろう。
その人の基準があり、それを無意識に自分の基準として考えている、
ということを言おうとしている。
つまり、人は自分が基準であり、
「違う基準の人がいる」を想像することはなかなか難しく、
違ったことで何か経験したことがないかぎり、
初手で想像することは難しいということだ。
背の高い人の目線と小さい人の目線は違う。
足の速い人の目線と遅い人の目線も違う。
応用すると、
人のもめごとに使えるわけだ。
逆に、基準が違う他人に気遣うことが出来る人は、
そういうギャップを経験した人である、わけだ。
やりちんが女子へ気遣うことが出来るのは、
それまでいろいろな経験をしているからだね。
最初はもめて、そのうち先回りできるようになったわけだ。
(大体姉がいることが多いよね)
そんな人間観察でした。
我々は異分子を理解できない。
明示的な違いはまあ分かるが、
そういう無意識に違いがあることまで、
なかなか想像できないのだ。
それを想像できるようになる変化こそが、
物語で描くべきところじゃない?
2023年02月19日
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