フィクションでは、何が起きてもおかしくない。
しかし、理不尽があるべきではない。
つまり、「世界が理解可能である」ようにする。
とはいえ、理不尽がない世界はない。
突然人が死んだり、
計画が失敗することはよくある。
万全を期してもそういうことは起こり、
そうした不幸は現実の人生でもよく起こっている。
つまり、フィクション世界が悪いのではなく、
現実の世界が理不尽なのだがね。
だから、あまりにもその理不尽を避けて、
理想的な世界を作ってしまうと、
リアリティがなくなる。
未来世界のコンピューターに支配された無菌室のように、
すべては予測通りにいき、
理不尽を排除できた世界はつくることは可能だが、
たぶんそれは面白くない対象として、
最後には破壊されるだろうね。
だから、
フィクションのストーリーでは、
予想できないことが起こる。
それは予測不能で、ときに理不尽だ。
ところが、
「それを理不尽としないのがフィクション」
と思うとよい。
どういうことかというと、
「その失敗には意味があったのだ」とするのが、
フィクションなのだ。
つまりフィクションとは、
現実の理不尽なことに対して、
ケツを持つのだ。
あいつの死を無駄にしなかったぞ、とか、
この恋は運命だったのだ、とか、
あの人があの世で見ていたからうまくいった、ありがとう、とか、
この失敗の反省が生きて、二度とこの悲劇は起こらなかった、とか、
理不尽がクリアされることを描いて、
はじめてフィクションは意味があると思う。
そして、
そのリカバーがあることが前提で、
フィクションは理不尽なことが起こる。
そうでないと危険がないからだ。
危険とは理不尽があるかも知れないということだ。
予測される危険は危険ではない。
予測できない危険があることが危険である。
「何かあったらどうするんだ」が危険であり、
「これとこれとこれが起こる」とわかっているものは、
危険ではない。制御下にいることだ。
制御できないから危険で、理不尽なんだよね。
もしこの世界がすべて法則化されて、
コンピュータで予測できるようになってしまったら、
ストーリーは効力を失うだろう。
理不尽にどう備えるか、
理不尽があったとしてもそれをどう超えるか、
が、ストーリーであるといえる。
つまり大げさにいうと、
ストーリーとは、「この世の(ある種の)理不尽に白黒をつけること」
だともいえる。
予測できないからハラハラする。
理不尽が起こるから、
それの意味を確定しようとする。
その二つが、ストーリーであるともいえようか。
逆に、
これのない、すべてが予測可能な安全なものや、
理不尽が起こるがその意味が確定しないようなものは、
ストーリーとして面白くなくて、
満足がないに違いない。
つまり、危険が面白さに直結して、
起こった理不尽の解釈が納得や満足に直結している、
と考えてもよいのではないだろうか。
ストーリーは、何が起こっても不思議ではない。
だから、ハラハラするのである。
2023年02月20日
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