2023年02月20日

ストーリーでは、何が起きてもおかしくない

フィクションでは、何が起きてもおかしくない。
しかし、理不尽があるべきではない。
つまり、「世界が理解可能である」ようにする。


とはいえ、理不尽がない世界はない。

突然人が死んだり、
計画が失敗することはよくある。
万全を期してもそういうことは起こり、
そうした不幸は現実の人生でもよく起こっている。
つまり、フィクション世界が悪いのではなく、
現実の世界が理不尽なのだがね。

だから、あまりにもその理不尽を避けて、
理想的な世界を作ってしまうと、
リアリティがなくなる。
未来世界のコンピューターに支配された無菌室のように、
すべては予測通りにいき、
理不尽を排除できた世界はつくることは可能だが、
たぶんそれは面白くない対象として、
最後には破壊されるだろうね。

だから、
フィクションのストーリーでは、
予想できないことが起こる。
それは予測不能で、ときに理不尽だ。

ところが、
「それを理不尽としないのがフィクション」
と思うとよい。

どういうことかというと、
「その失敗には意味があったのだ」とするのが、
フィクションなのだ。

つまりフィクションとは、
現実の理不尽なことに対して、
ケツを持つのだ。


あいつの死を無駄にしなかったぞ、とか、
この恋は運命だったのだ、とか、
あの人があの世で見ていたからうまくいった、ありがとう、とか、
この失敗の反省が生きて、二度とこの悲劇は起こらなかった、とか、

理不尽がクリアされることを描いて、
はじめてフィクションは意味があると思う。


そして、
そのリカバーがあることが前提で、
フィクションは理不尽なことが起こる。
そうでないと危険がないからだ。

危険とは理不尽があるかも知れないということだ。
予測される危険は危険ではない。
予測できない危険があることが危険である。
「何かあったらどうするんだ」が危険であり、
「これとこれとこれが起こる」とわかっているものは、
危険ではない。制御下にいることだ。

制御できないから危険で、理不尽なんだよね。

もしこの世界がすべて法則化されて、
コンピュータで予測できるようになってしまったら、
ストーリーは効力を失うだろう。

理不尽にどう備えるか、
理不尽があったとしてもそれをどう超えるか、
が、ストーリーであるといえる。

つまり大げさにいうと、
ストーリーとは、「この世の(ある種の)理不尽に白黒をつけること」
だともいえる。


予測できないからハラハラする。
理不尽が起こるから、
それの意味を確定しようとする。
その二つが、ストーリーであるともいえようか。

逆に、
これのない、すべてが予測可能な安全なものや、
理不尽が起こるがその意味が確定しないようなものは、
ストーリーとして面白くなくて、
満足がないに違いない。

つまり、危険が面白さに直結して、
起こった理不尽の解釈が納得や満足に直結している、
と考えてもよいのではないだろうか。


ストーリーは、何が起こっても不思議ではない。
だから、ハラハラするのである。
posted by おおおかとしひこ at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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