2023年02月22日

人が美しい瞬間を描こう

映画俳優というのは美しいものである。
彼らが美しく輝く瞬間を描くのが映画である、
という言い方もできる。

それは彼らがそこにいればそれでいいのだろうか。
そうではない。
シナリオにそう書かれていなければ、輝けないのだ。


ただ立っているだけで美しいとか、
風を受けているだけで美しいとか、
そういうものではない。
造作がよいだけならば、別に彫刻でもいいんだよね。
それは映画的な美しさのことではない。
映画的に美しいことは、物語的に美しいことだ。
どういうことか。

それは、「行動が美しい」という事じゃないかと思うんだよね。


一回、美しい俳優を忘れて、
不細工な我々のリアルな世界を考えよう。

仮に不細工な我々であっても、
美しい瞬間というのはあり得る。
たとえばいじめがあるときに、それに加担せずにやめろよと言える時とか、
困っている人に手を差し伸べる時とかだ。
やるべきことに対して立ち上がる瞬間や、
走り出す瞬間も美しい。

それは不細工とは関係なく、
行動が美しいのである。
もっというと、考え方が美しいのである。

そうした瞬間こそが、
物語的な美しい瞬間という事だ。
だから、見た目と美しさはあまり関係がない。
むしろ、不細工ですら美しい瞬間を考え出すことが、
物語に課せられた使命だとすら言える。


そして、もしそれがとてもオリジナルで、
見たこともないような美しさであれば、
見た目が美しい俳優が、
それをよりビジュアル的に美しくつくってくれるだろう。

ただ見た目のよい俳優が立っているだけでも美しいのであるが、
内容の美しさと二乗に影響しあって、
映画とは美しくなるものなのだ。


美しい俳優たちを、
ただコスプレさせて並べているだけの、
しょうもないブロッコリーポスター、
聞いてるか?
お前は俳優のプロモーションをしているだけで、
映画そのものの美しさについて、
無知を晒しているだけだぞ?

我々脚本家が考えるべきことは、
オリジナルな美しさについてだ。
人間が行動するときに現れる美しさについてだ。

それがないなら、
雑誌の写真と大差ない。
写真と違う、ムービーならではの美しさについて考えるには、
文脈が必須になってくるわけだ。


いつ、人は美しいだろうか?
それを考えずに、
何を描こうとしているのだろうか?
posted by おおおかとしひこ at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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