映画俳優というのは美しいものである。
彼らが美しく輝く瞬間を描くのが映画である、
という言い方もできる。
それは彼らがそこにいればそれでいいのだろうか。
そうではない。
シナリオにそう書かれていなければ、輝けないのだ。
ただ立っているだけで美しいとか、
風を受けているだけで美しいとか、
そういうものではない。
造作がよいだけならば、別に彫刻でもいいんだよね。
それは映画的な美しさのことではない。
映画的に美しいことは、物語的に美しいことだ。
どういうことか。
それは、「行動が美しい」という事じゃないかと思うんだよね。
一回、美しい俳優を忘れて、
不細工な我々のリアルな世界を考えよう。
仮に不細工な我々であっても、
美しい瞬間というのはあり得る。
たとえばいじめがあるときに、それに加担せずにやめろよと言える時とか、
困っている人に手を差し伸べる時とかだ。
やるべきことに対して立ち上がる瞬間や、
走り出す瞬間も美しい。
それは不細工とは関係なく、
行動が美しいのである。
もっというと、考え方が美しいのである。
そうした瞬間こそが、
物語的な美しい瞬間という事だ。
だから、見た目と美しさはあまり関係がない。
むしろ、不細工ですら美しい瞬間を考え出すことが、
物語に課せられた使命だとすら言える。
そして、もしそれがとてもオリジナルで、
見たこともないような美しさであれば、
見た目が美しい俳優が、
それをよりビジュアル的に美しくつくってくれるだろう。
ただ見た目のよい俳優が立っているだけでも美しいのであるが、
内容の美しさと二乗に影響しあって、
映画とは美しくなるものなのだ。
美しい俳優たちを、
ただコスプレさせて並べているだけの、
しょうもないブロッコリーポスター、
聞いてるか?
お前は俳優のプロモーションをしているだけで、
映画そのものの美しさについて、
無知を晒しているだけだぞ?
我々脚本家が考えるべきことは、
オリジナルな美しさについてだ。
人間が行動するときに現れる美しさについてだ。
それがないなら、
雑誌の写真と大差ない。
写真と違う、ムービーならではの美しさについて考えるには、
文脈が必須になってくるわけだ。
いつ、人は美しいだろうか?
それを考えずに、
何を描こうとしているのだろうか?
2023年02月22日
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