現実では、さまざまな選択があり、
最善の選択が出来るとは思えない。
しかし、フィクションでは、最善の選択をする。
なぜ現実で最善の選択ができないかというと、
すべての選択肢が可視化されていなくて、
その選択肢のリスクリターンが確定していないからだ。
すべての選択肢がオープンになっていて、
気づかない選択肢もある。
しかしフィクションではそうではない。
すべての選択肢はオープンで、
それらを取ったときのリスクリターンもはっきりわかることが多い。
(あえて隠すときを除く)
だから、よりゲーム的になっていると思う。
現実よりかなり整理されている、ということだ。
ゲームと現実の差は何か。
整理されているか、整理されていないか、
だと僕は考えている。
こうしたら死ぬとか、こうしたら成功するとか、
ゲームでは決まっているものだ。
ゲームは、現実のようでいて、
そのカオスを扱いやすいように簡略化して整理されたものに過ぎない。
シミュレーションというわけだ。
で、
フィクションは、そのゲームの中継のようなものだ。
だから最良の選択肢は、
ほとんど観客にオープンになっている。
だから観客は、ベストの選択肢を分かっている。
だからといって、オール成功を選ぶことはめったにない。
どこかで失敗するものだ。
それは全成功することがリアルじゃないからだ。
リアルでは失敗することも多く、
それをリカバーしなければ成功できない。
だからシミュレーションであるフィクションも、
失敗からのリカバリーをきちんと描く。
しかも、現実より強力なリカバリーをだ。
だからリカバーも、
ゲーム的に選択肢が明示されていて、
それをベストの選択をなすことが多い。
そうでなければ、
「なぜ彼らは成功したのか」にうまく答えられないからだ。
フィクションは現実ではなく、
つくりごとだ。
「なぜ成功したのか」について、
明確な答えが必要だ。
「よくわからんけど成功しました」では、
もやもやする。
それはフィクションは現実を簡略化したシミュレーションで、
世界が理解できるようにつくっているからである。
すべてが理解できるとは限らないが、
少なくともテーマの範囲については、
理解できるものになっているべきだ。
だから、
その選択、成功の要因については、
すべて説明可能になっているはずだ。
そうでないものは、
偶然成功したとか、
なんかわからんが成功したとかになる。
それはストーリーとしては面白くない。
「なるほど、だから成功したんだ」と、
皆は納得したいからだ。
すべての選択肢を全部正解を引くのは、おもしろくない。
適度に失敗して、
しかし失敗したことがより成功に結び付くことだったのだ、
となると、より成功の快感は強い。
「こうすれば成功する」というシミュレーションの答えだからね。
もちろん、そのモデル化が、
現実を離れていい加減だったら、
ご都合主義や適当といわれる。
それが現実にもありそうだから、
フィクションはリアリティを持つ。
しかし現実そのままではたいした成功はないから、
劇的な成功をするために、
世界を少しだけ簡略化して、分かりやすくするものである。
近年、それをリアリティラインなどという呼び方をするようになったが、
シミュレーションのリアル具合、
と考えるといいだろう。
で、
色々なゲームプレイ動画の中で、
一番成功した動画映えするものが、
劇映画になっている、
と考えるといいかもしれないね。
つまり、
フィクションのストーリーは、
その設定された世界をプレイするゲームの中で、
ベストに選択肢をうまく選んで勝利したもの、
ということ。
納得するサクセスストーリーはどういうものか?
リアリティの面と、分りやすい省略の面との、
両面で考えるべきことだ。
2023年02月27日
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