説明の下手な人と上手な人の違い。
数学の教科書で考えよう。
分りにくいものの代表だからだ。
なぜわかりにくいのだろう、と高校生くらいのときは、
ずっと疑問だった。
で、大学でファインマン物理学(力学だったと思う)の教科書を読んで、
衝撃を受けたんだよね。
日本の教科書とちがってすごくわかりやすかったんだよ。
なんでか考えると、
そのわかりやすさは、
「こちらが理解するまでのプロセスを、
待っていてくれる」からだと思ったのだ。
つまり、
「初見で分りにくいことを、
きちんとかみ砕いて説明して、
しかも分り終わるまで待ってくれる」
という感じだった。
これは実際に目の前に人がいるならば、
そうしてしまうだろうけど
(相手が分っているか分っていないか分るので)、
教科書のような相手が見えないものだと、
その勘所をつかむのは難しいよね。
で、逆になぜ日本の数学の教科書が分りにくいのだろう?と考えると、
「客観的に正しいことだけを書けば、
分ってくれると考えている」からだと思う。
つまり、
相手が理解する速度とか、能力とかはおいといて、
客観的に正しいことだけを書いてありますよ、
私は間違っていないですよ、
という感じが、日本の教科書なんだよね。
f=maが絶対的に正しいからといって、
その式がどういう意味を持っているかとか、
aはそもそもxの二階微分であるとか、
mは動きにくさの定数であると考えられるとか、
式を見て解釈して理解しなおす時間が、
日本の教科書には書いていない。
しかしファインマンはそれをきちんと議論した。
この差だ。
日本の教科書は、だから保険の契約書に似ている。
間違ったことは書いていなくて、
正しいことを(書く側が)エネルギー最小の形で書いてある。
客観的に正しいから間違っていないですが、何か?
という顔をしている。
理解する側がエネルギー最小であるには、
そこから書く側がサービスをする必要がある。
つまり、
理解へいたる為に、道筋を用意して、
誘導してあげなければいけない。
日本の数学の教科書や、保険の契約書には、
そのような導きがない。
たとえばチャート式のような、
参考書が必要になると思う。
そもそも数学や物理というのは、
現実のややこしいカオスを、
たった一つの数式にまとめたものである。
だから最小の表現に縮約したものである。
だからそれを展開して開かないと、
現実には即さないと思う。
チャート式では、
たいてい冒頭にまとめがあり、
その後に解説がある。
解説は一回読んで理解したら二度と読まなくていい。
(分りにくいなら何回も読むだろう)
つまり、
一回理解したら、解説部分は捨ててよくて、
まとめの部分だけ切り抜いてもってればいいわけ。
カンニングペーパーをつくるならば、
そのまとめの所だけ写せばいいわけだね。
で、
日本の数学の教科書や、保険の契約書って、
このまとめの部分しかないよね、
という話をしている。
ファインマンやチャート式は、
それ以外の解説の部分が大変多い、
という話をしている。
さて、本題だ。
説明の上手な人と、下手な人の違いについて。
もう答えは分るだろう。
下手な人は、
客観的に正しいことだけしか書いてないのだ。
数学の公式を一行だけ書いておしまいだったり、
甲は乙に委託する、
みたいに、
絶対正しいことだけをエネルギー最小形式で書いていて、
「正しいからわかるでしょ」
「正しいから何が間違っているんですか?」
と言っているわけ。
「人は、理解するのに時間がかかるから、
誘導しなければならない」ということを、
想定に入れていないんだよ。
つまり説明の上手な人は、
相手が徐々に理解していく、
「理解プロセス」を想定していて、
その理解プロセスを追い越さないように、
「徐々に説明していく」ということだ。
要素が多いなら、そもそもはしょったり、
段階が多いなら一回休んで俯瞰してみたり、
など、
今どこらへんとかの情報も与えたり、
理解がおいつくように、
抽象的なことを具体例をあげて理解させたりするわけ。
その具体的な方法はおいておくとしても、
つまり、
「説明の上手な人は、説明に時間がかかる」
ことがポイントである。
そりゃそうだよね。
数式一行だけ書けば、
分っている人にはそれだけでいい情報に対して、
チャート式一ページくらい足しているからね。
説明の上手な人は、
その分量を事前に見積ることが上手いのだと思う。
そのうえで、
的確な分量にうまく切り分けて、
相手がかみ砕くまで待って、
最後まで食べきれるようにするのが、
上手なのだと思う。
説明の下手な人は、
チャート式のまとめ部分しか書いていない。
説明の上手な人は、
まとめと説明と両方やる。
つまり説明の上手な人は、
大変な労働量を支払っている。
さて。
映画とは、時間軸を持つメディアである。
その中で、
「説明に要する時間」は、
どれだけ許されるだろうか?
何分、という風に具体的な数字で示せればいいのだが、
なんとも言えないから、
経験的に、
「分る範囲で長く、余計でない範囲で短く」
としか言えないよね。
これでよくあるミスが、
自分は初見でないゆえに、
とくにリライトの時点で、
「これはよくわかっていることだから説明を簡略的にしてしまおう」
と判断してしまうことだ。
分っているのは作者(たち)だけで、
初見の人には時間をかけて説明するべきなのだが、
それを見誤る、ということはとてもよくあるミスである。
「これ分りにくいね」と判断するのは、
初見の人だということを忘れているわけだ。
じゃあ、
一回その映画を見たリピーターが、
二回目を見るときに、
初見の人用に説明する部分は、
邪魔じゃない?
たぶん邪魔だ。待ってなきゃ行けない。
でもそれすら「初見の人が説明を受ける」気分になれるわけだ。
二回目を見ようが、n回目を見ようが、
観客はつねに初見の人として物語を見る。
それを忘れないことだ。
(さすがにものすごいリピートしたら、
初見の人用の説明部分は飛ばすようになるかもだが)
たとえば、
スターウォーズEp4の、
デススター攻略の作戦会議は、
何回見ても、こうなっているのかあ、
この溝をクリアして、ここに放り込むのか、
これは危険なミッションだ、
って毎回思ってしまう。
それでいいと思うんだよね。
あなたは説明が上手か?
日本の数学の教科書みたいに、
一行に情報を縮約しようとしていないか?
それで説明をした気になっていないか?
チャート式を書くことが、
あなたに課せられた期待である。
2023年03月03日
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