ストーリーは線であり、場面は点である。
……ということを言おうとしているわけではない。
もっとメタの話。
作者にとっては、完成品ないし執筆途中の物語は、
「あれこれ考えていくつものバージョンを経てきたもの」
という線を持っている、という話。
これに対して、それを見ている観客からすると、
「たったひとつの完成バージョン」しかない、
という意味で、点だという話。
観客はたったひとつバージョンだけを見るから、
あの設定はこういう意味なんだろうか、
あれとあれは実はこういうことなんだろうか、
などと深読みをして楽しむ。
あれは実はあれを示唆しているのではとか、
あれとあれの関係性は明示されていないが、
こうとも読めるのではないかとか。
でもこれ、作者からすると、
最初にやったバージョンからいろいろ変わってて、
最初はこういう風に考えていたんだけど、
途中でこういう感じに変わって、
最終的にはこうしたんだよなあ、
という、バージョン違いの線がみえていることがある。
なので、
観客が、
「あれのあれはこうですか?」などの考察に対して、
「いや実は最初はこうだったんだけど、
こういう風に変更してさあ、
だから最初のやつの設定は結局使っていないんだよね」
みたいな頓珍漢な答えになってしまう。
これは間違いのコミュニケーションである。
観客の考察に対しては、
「そうだね。実は〇〇と〇〇もつながっているように、
読めるよね……」
などのように、「たったひとつのバージョン」について、
考察を深めなければならない。
なぜなら、
そのいくつかのバージョンは存在しないものであるからだ。
存在しえないものについて語ってもしょうがない。
観客は、
存在するものについて語りたいのである。
もちろん、ビハインドザシーンは面白い。
こういうバージョンが最初期版かあ、
などと思うのは楽しい。
しかし、本編をしゃぶりつくす前にそれがあっても興覚めなんだよね。
エヴァンゲリオンが、
たったひとつのテレビ版しかなかったからこそ、
沢山の考察がはかどったわけで、
同時にいくつものバージョンが存在してしてまったら、
まあどうでもいいかになるはずだ。
貞本版が同時に連載されていたら、
まあどっちでもいいかになってしまう。
芸術というのは、ベストの形で世に出ている、
ということが前提になっているべきだろう。
だから価値があるのだと。
勿論現実的には、
人間が完璧な形をしていなくて、
環境に適応したベターな形でしかない
(たとえば盲腸はいらんやろ)ように、
最終バージョンが完璧で、
非の打ちどころがないバージョンではなく、
色々なバージョンを検討した結果、
ベター版でしかない、
なんてことはよくある。
しかしその台所事情と、観客は関係ない、
と考えることだ。
寿司屋にいって、
まあ大体のバージョンのうち、まあまあよかったやつを出します、
と言われても冷めるだけだ。
今日一新鮮なネタを出しますよ、
と言われたほうがいいに決まっている。
作者が語りたい内容は、
最近苦労したことだ。
だから、いくつものリライトを重ねた、
最後のほうの記憶で話をしたくなってしまう。
しかしそれはファンにはやめたほうがいい。
作者同士で語るならばまあそれはありだけど、
作品を鑑賞した直後の人は、
本編を堪能したいわけなので、
それは鑑賞の妨げにすらなるよ、ということ。
作者から見たその世界は、
何個かあり得た可能性のバージョンの重ね合わせ。
すべて探検しつくし、順列組みあわせをすべて終えたもの。
観客から見たその世界は、
まだ探検しつくしていない、唯一のユートピア。
その差があることをいつも考慮するべきだ。
観客は常に初見であり、
観客は常に現在しか体験していない。
そして観客は、唯一のバージョンしか体験していない。
その世界の人生を何周かしている作者とは、
まったく次元が異なることに、
気づこう。
でもつい言っちゃうんだよね。
「実は削除した設定でこういうのがあってね……」と。
しゃぶり尽くした好事家用のものだ、
ってことを分っておこう。
せいぜい、
「一応〇〇と〇〇は関係がある、みたいな匂わせをしておいたんだけど、
気づいた?」
くらいに留めるべきじゃないかなあ。
2023年03月11日
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