2023年03月12日

あれを言うなら、これも言わなければ

話がとっ散らかる人には、
こういう傾向があると思う。


話というのは繋がりである。
何かと何かを繋げていけばよい。

それが関連のあるものが、繋がりという。
何の関係ないものを繋げても、
繋がっていないわけだ。

で、
その繋がりは、
多くは時系列や因果関係で繋げていく。

「そして、だから」で繋がれば、
それは繋がりとして妥当だ。

「ところが、一方、話は変わって」は、
危険な繋がりである。
全く関係ないないものへ繋げようとしているからだ。

しかし話を進めると、
これまでのものと繋がりが出てきて、
これを話す意味があったのだと分かればよい。

しばらく経っても繋がりが見出せず、
話が明後日の方向へ行っているならば、
それは繋がってない話になってしまう。


さて本題だ。

何かを話している時、
連想で別の話を言いたくなることがある。

連想のうまい人は話のテンポがよく、
目先がうまく変わって、
飽きさせないように話を続けることが出来るが、
全く関係ない連想になって、
話がとっ散らかることも、
デメリットとしてあるわけだ。


だから、この飛躍は正しいか?
を常にチェックしようぜ、
ということだ。

あれを言わなければならないなら、
これも言うべきだ、
と話の途中で気づくことがある。

それは、妥当な連想か?ということ。


いい連想ならば、
痒いところに手が届き、
微に入り細に入った、真摯な補足になるだろう。

あるいは、素人考えでは及ばなかった、
熟考に出会える可能性もある。

あるいは、面白い連想で、
それを楽しんでいる間に話が繋がってきて、
なるほどいい飛躍だったとあとで感心するわけだ。
「その発想はなかった」と、
みんなが驚き、感心するわけだね。


ところが、悪い連想だと、
連想そのものは面白くても、
話が繋がってこないわ、
行き先は見えなくなるわ、
そもそも本題に対してノイズになるわで、
いいことは一つもない。

だから、
悪い連想はカットして、
良い連想へ飛躍しよう、
というのが理想になるわけだ。


じゃ、良い連想と悪い連想は何が違うのか?

必然性だ。

それがあると話が良くなるのが良い連想で、
悪くなる、ノイズになる、繋がりが薄れるのが、
悪い連想である。

じゃ、良い悪いを決めるためには何が必要か?

コンセプトだ。

「この話はこのようなコンセプトである」
というものを何故決めなければならないか?
の答えがこれだ。

コンセプトを決めて、
それを守らないと、
話は連想によって脱線するのだ。



連想が起こる時は、
話が退屈し始めた時が多い。

それは一種の本能による警告である。
これを、脱線させないための工夫をしなければならないから、
連想によって飛躍すること自体は間違っていない。
その飛躍が正しいかどうかを、
コンセプトに反しているか、沿っているかで、
チェックできるということ。


問題は、
コンセプトよりも飛躍の方が面白そうな時だね。
それは、じゃあコンセプトが面白くないから、
その飛躍を含めた新しいコンセプトBへ変更するかを、
考え直すべきだろう。

で、今旧コンセプトAで書き始めたもののはずだから、
コンセプトBで書き始めるところから、
やり直すべきだ。
多くは共用できるかも知れないが、
だいぶ書き直さないと、コンセプトBにならないかも知れない。

連想の思いつきに比べて、
この書き直しはずいぶん地味で疲れる行為であり、
創造的というよりも掃除的である。
だから詰まらなくて、
また連想が起こるかも知れない。
そうすると、出来てない継ぎ足しの迷路になってしまうだろうね。



ある一つの作品は、
ある一つのコンセプトに貫かれていなければならない。

反例はすぐ思いつく。
カルト映画「フロムダスクティルドーン」を見ると良い。
この中折れ映画は、途中でコンセプトががらりと変わったものだ。
まだ、たった二つのコンセプトだから、
A面B面みたいにみえるけど、
これがもっと多かったら訳分からんでおしまいだろう。

見ればわかるけど、
前半のちゃんとした続きが見たい(たぶん作者は思いつかなかった)、
後半ありきなら前半にそうとわかるようにしとけや、
という消化不良感が残る。

これがカルト化してるのは後半のめちゃくちゃさなのだが、
まあ一回見てみるといいよ。
これは良くないとわかる例だからね。


逆に言うと、
「ある作品が一つのコンセプトに貫かれている」ことは、
「ああスッキリした」のためにあるわけだ。



ということで、
「あれを言うならこれも言わなければ」
をやっているときに、
コンセプトに反しているなら、言うべきではない、
という単純カットもよし、
それは面白いのでコンセプトを新しくして、
一から書き直すもよし、
コンセプトに反してないなら、
面白おかしくやって、うまく接続すればいいだけのこと。

コンセプトと照らし合わせて考えよう、
ということだ。


プロになってからよくあるのは、
「あれを言うなら、これも言ってください」
と、後出しで政治案件が入れ込まれることだね。

この時に「コンセプトが変わってしまうがよいか?」
を確認しないとグダグダになる。
コンセプトAに新要素Xが反するよ、
という了解を取り付けないと、揉めることになるだろう。

その極みが、コンセプト不明、
出演者の政治的バランスの取れている、
東京五輪開会式だ。
あの不快さは、どこにも着地しない、
コンセプト不明瞭にあるわけだ。



連想はよし。
それがいい連想かどうか、チェックされたい。
posted by おおおかとしひこ at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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