話がとっ散らかる人には、
こういう傾向があると思う。
話というのは繋がりである。
何かと何かを繋げていけばよい。
それが関連のあるものが、繋がりという。
何の関係ないものを繋げても、
繋がっていないわけだ。
で、
その繋がりは、
多くは時系列や因果関係で繋げていく。
「そして、だから」で繋がれば、
それは繋がりとして妥当だ。
「ところが、一方、話は変わって」は、
危険な繋がりである。
全く関係ないないものへ繋げようとしているからだ。
しかし話を進めると、
これまでのものと繋がりが出てきて、
これを話す意味があったのだと分かればよい。
しばらく経っても繋がりが見出せず、
話が明後日の方向へ行っているならば、
それは繋がってない話になってしまう。
さて本題だ。
何かを話している時、
連想で別の話を言いたくなることがある。
連想のうまい人は話のテンポがよく、
目先がうまく変わって、
飽きさせないように話を続けることが出来るが、
全く関係ない連想になって、
話がとっ散らかることも、
デメリットとしてあるわけだ。
だから、この飛躍は正しいか?
を常にチェックしようぜ、
ということだ。
あれを言わなければならないなら、
これも言うべきだ、
と話の途中で気づくことがある。
それは、妥当な連想か?ということ。
いい連想ならば、
痒いところに手が届き、
微に入り細に入った、真摯な補足になるだろう。
あるいは、素人考えでは及ばなかった、
熟考に出会える可能性もある。
あるいは、面白い連想で、
それを楽しんでいる間に話が繋がってきて、
なるほどいい飛躍だったとあとで感心するわけだ。
「その発想はなかった」と、
みんなが驚き、感心するわけだね。
ところが、悪い連想だと、
連想そのものは面白くても、
話が繋がってこないわ、
行き先は見えなくなるわ、
そもそも本題に対してノイズになるわで、
いいことは一つもない。
だから、
悪い連想はカットして、
良い連想へ飛躍しよう、
というのが理想になるわけだ。
じゃ、良い連想と悪い連想は何が違うのか?
必然性だ。
それがあると話が良くなるのが良い連想で、
悪くなる、ノイズになる、繋がりが薄れるのが、
悪い連想である。
じゃ、良い悪いを決めるためには何が必要か?
コンセプトだ。
「この話はこのようなコンセプトである」
というものを何故決めなければならないか?
の答えがこれだ。
コンセプトを決めて、
それを守らないと、
話は連想によって脱線するのだ。
連想が起こる時は、
話が退屈し始めた時が多い。
それは一種の本能による警告である。
これを、脱線させないための工夫をしなければならないから、
連想によって飛躍すること自体は間違っていない。
その飛躍が正しいかどうかを、
コンセプトに反しているか、沿っているかで、
チェックできるということ。
問題は、
コンセプトよりも飛躍の方が面白そうな時だね。
それは、じゃあコンセプトが面白くないから、
その飛躍を含めた新しいコンセプトBへ変更するかを、
考え直すべきだろう。
で、今旧コンセプトAで書き始めたもののはずだから、
コンセプトBで書き始めるところから、
やり直すべきだ。
多くは共用できるかも知れないが、
だいぶ書き直さないと、コンセプトBにならないかも知れない。
連想の思いつきに比べて、
この書き直しはずいぶん地味で疲れる行為であり、
創造的というよりも掃除的である。
だから詰まらなくて、
また連想が起こるかも知れない。
そうすると、出来てない継ぎ足しの迷路になってしまうだろうね。
ある一つの作品は、
ある一つのコンセプトに貫かれていなければならない。
反例はすぐ思いつく。
カルト映画「フロムダスクティルドーン」を見ると良い。
この中折れ映画は、途中でコンセプトががらりと変わったものだ。
まだ、たった二つのコンセプトだから、
A面B面みたいにみえるけど、
これがもっと多かったら訳分からんでおしまいだろう。
見ればわかるけど、
前半のちゃんとした続きが見たい(たぶん作者は思いつかなかった)、
後半ありきなら前半にそうとわかるようにしとけや、
という消化不良感が残る。
これがカルト化してるのは後半のめちゃくちゃさなのだが、
まあ一回見てみるといいよ。
これは良くないとわかる例だからね。
逆に言うと、
「ある作品が一つのコンセプトに貫かれている」ことは、
「ああスッキリした」のためにあるわけだ。
ということで、
「あれを言うならこれも言わなければ」
をやっているときに、
コンセプトに反しているなら、言うべきではない、
という単純カットもよし、
それは面白いのでコンセプトを新しくして、
一から書き直すもよし、
コンセプトに反してないなら、
面白おかしくやって、うまく接続すればいいだけのこと。
コンセプトと照らし合わせて考えよう、
ということだ。
プロになってからよくあるのは、
「あれを言うなら、これも言ってください」
と、後出しで政治案件が入れ込まれることだね。
この時に「コンセプトが変わってしまうがよいか?」
を確認しないとグダグダになる。
コンセプトAに新要素Xが反するよ、
という了解を取り付けないと、揉めることになるだろう。
その極みが、コンセプト不明、
出演者の政治的バランスの取れている、
東京五輪開会式だ。
あの不快さは、どこにも着地しない、
コンセプト不明瞭にあるわけだ。
連想はよし。
それがいい連想かどうか、チェックされたい。
2023年03月12日
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