究極の問い。どっちが大事かとふと疑問に思った。
僕は論理配列だな。
クソキーボードで薙刀式を使うか、
ここまで工夫した今のこのキーボードないし最高級キーボードで、
qwertyローマ字を使うか、
選べと言われたら、
僕は薙刀式を取るなあ。
たしかにクソキーボードだと、
押下圧は重いだろうし、
手は痛くなるだろうし、
指は捻れるだろうし、
快速で打てないかも知れないが、
まだqwertyを使うよりマシだ。
また、
クソキーボードは買い換えることが出来るが、
qwertyはどんなに金を出しても良くならないよな。
国家買えるくらいあれば、
qwerty禁止と法律を変えてしまえばいいのかもだが。
つまり、薙刀式にはそれくらい価値があるのかもね。
僕にとっては薙刀式だけど、
人によっては別の配列が入るかも知れない。
人によっては、
○○配列よりも、
左右分割やいいスイッチのほうが優先順位が高いかもしれない。
でも僕は、薙刀式が使えなくなるなら、
文筆活動はしなくなるかもしれないな。
絵描きとか、別の手段で芸術をやるかもしれない。
論理配列はつまり、
文字の手順のようなものだから、
手書きにおける筆順みたいなことだ。
僕にとってqwertyはめちゃくちゃな筆順で書く文字で、
薙刀式は美しい続け字が書ける、
合理的で最短エネルギーの手順だ。
配列を変えるということは、
筆順や筆跡を変えることに近いかもね。
それを嫌なものに変えられるくらいなら、
文字を書かない決意をするだろうな。
こんな風に論理配列を扱ってる人は、
親指シフターの一部だろうか。
月配列が使えないなら死ぬとか、
飛鳥が使えないなら書かないとか、
新下駄が使えないなら断筆するとか、
聞いたことがないなあ。
まあ月配列と新下駄は実装できる環境が良すぎるので、
使えないなら、という仮定がナンセンスに近い。
でも薙刀式はいつ使えなくなっても、
しょうがない運命ではある。
実装が簡単ではないからね。
なので使える限り全力で使うしかないよなあ。
VHSビデオテープを使ってる時は、
いつかこれを使わなくなるなんて思わなかったもんね。
薙刀式が使えなくなる時が来たら、
また別の論理配列をつくったりして。
未来の俺ならやりそうだ。
筆運びの順番が変わるだけで、
エネルギー効率、速度、
そして思考と繋がってる感覚がガラリとかわる。
言葉は人間の根本のひとつだ。
デジタル言葉の根幹に論理配列がある。
論理配列を変えることは、
思考や言葉から変わってしまう、
いわば洗脳装置に近いことだ。
僕はqwertyの洗脳に屈しなかった。
自分の思考を守るための、
そして攻めるための指の流れをつくった。
そういう意味ではひとつの武術の流派を立てることと、
同じことをしてるんだよな。
論理配列と物理キーボードの関係は、
武術の流派とフィジカルの関係に似てるなあ。
分派や派生が生まれやすいのも似ている。
身体操作そのものの特徴かも知れない。
2023年02月15日
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