すでに「鬼側を主人公にしたMOMOTARO」
というお題で二つほどプロットを上げていた例があった。
批評しようかね。
https://twitter.com/NeueHelvetica/status/1626169166880477184?s=20
僕はこの2本とも「面白くない映画」だと思ったんだよね。
そもそもハリウッドの三幕構成理論も、
Save the catのビートシートも、
「これまであった膨大な映画から、
共通っぽい構造を抽出したもの」だよね。
つまりパターン抽出だ。
この意味では、膨大な例から学習して、
空間の中点を出力するChat GPTと、
同じようなことをしているわけ。
だからビートシートで記述させる、
というのは実は両者の構造が似ていることを知ってる人が、
わざとやらせたことのようにも思える。
「こういうのなら得意やろ」と読みがあった感じがする。
だから、
「一見形が整っている」ように思える。
だから、
中身を読解できない阿呆が、
形だけ見て企画を通してしまう可能性がある。
それは、
形はビートシートのように綺麗ではないが、
本質的に新しく、面白いものを、
見逃す可能性を示唆する。
人は、「すでに形のある何かに似ているもの」
を選ぶと安心する傾向がある。
「これはフォーマットに沿っている。
ヒットするぞ」と考えるプロデューサーは馬鹿であり、
「こんな中身のねえもの二度と持ってくるな」
と怒鳴るプロデューサーこそが本物だ。
さて、
形式は非常に整っているのは、
さすがだと思った。
表面上の文章の体裁はすばらしい。
しかしその魂がない。
分析していこう。
一本目。
クライマックスが「説得」なのが詰まらないと思った。
そんな映画なにがおもろいんや。
そもそも桃太郎と主人公鬼が心を通わせる、
肝心のところが具体的なエピソード抜きに示されている。
「主人公はヒロインに告白してつきあうことになる」
くらい適当なプロットだ。
このようなプロットはつまらない。
実際に執筆するときに、
新しく創作しなければならないからだ。
そして、主人公鬼がやっていることは、
常に自分の生き方を人々に説得することだけ。
つまり、「演説してまわる人」になるわけ。
じゃあキャシャーンと一緒だよね。
映画とは、セリフでなく行動であった。
共生の可能性を示すならば、
主人公鬼が「何をどうするか」で示さなければならず、
それがストーリーの核になる。
その行動と結果が書いてない時点で、
これは強力でオリジナルな話ではないわけ。
2本目。
サルと知り合うのは捻ってきたね。
ここまで出来るのかと驚いた。
しかし結局は互いに孤児であったことで心を通わせるパターンは、
一本目と同じだし、
具体的なエピソードがないので、
適当すぎる。
「俺は孤児だったんだ」「お前もか…」で、
仲良くなるわけないやろ。
クライマックスが、
「実は兄弟だったとわかって抱き合う」って、
おもしろいか?
それはクライマックスの前にやることで、
それが分かった上で、
真の敵と戦う話のほうが面白いやろ。
常に行動がなく、
言えばわかる的な、
映画とは何かをわかっていないプロットだ。
実際のスクリプトを書かせているのも興味深い。
しかし肝心の場面でなぜサイレント。
ダサすぎる演出。
「俺とお前は兄弟なのだ」
のセリフの言い方違いしかないんかい。
同じ桃の種を(臍の緒のように)持っているとか、
小道具を使ってみやがれ。
デジタルは馬鹿発見機である。
実力のないライター、
中身を読む力のないプロデューサーが、
この形式でプレゼンし、
この形式のものを通すだろう。
そして滅びるのだ。
これらの文章を読んで、少しでも面白そうと思った人は、
脚本を扱うだけの眼力がついていない。
「なんでやねんと思うところばっかやんけ、下手くそ」
と思えるならば、目がある。
今のところの人工知能が出来ることは、
過去を取り込み中点を打つことだけだ。
「これまでなかった斬新なもので、
かつこれまでの歴史から進化させるもの」
を作り出すことは、
原理的にできない。
つまり、市場は縮小する。
2023年02月17日
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