なぜ物語を書くのは難しいのか。
それは動的なものを作るからであり、
我々の理解(≒言語)が、
静止したものを扱うのに特化しているからでは、
というのが僕の説。
「理解する」とはどういうことだろう?
哲学や脳科学や認知科学で研究されてるのかな。
あるいは人工知能が理解したとは、
どのようなことなのか、シミュレートされてるんだろうか。
その辺はよく分からないが、
これまでの経験から僕の説をのべる。
「理解とは、
概念と概念の関係を理解すること」
と定義してみよう。
その時、概念、関係は、
静的か、動的か?という話。
僕は、どちらも静的なのでは?と考える。
概念は静的である。
概念は名詞であり、
モノや現象の名前だ。
これらは動的に変化するものにつけられない。
変化全体を名詞化することは可能だ。
四季とか。
しかし「春から夏に移行しつつあるかんじ」
は概念(名詞)にない。
もちろん造語として作ることは可能だけど、
一般の話をしている。
概念が全て静的かは分からないが、
ほとんどは静的であるとしよう。
関係も静的である。
上位概念下位概念、包括、
肉体関係、などだ。
「もうちょっとしたら付き合えそうなんだけど、
まだ微妙な関係」なんかは関係ではない。
関係として「しっかりしたもの」ではないからだ。
つまり、
理解とは、
しっかりした静的なものと、
しっかりした静的なものの、
しっかりした静的関係を結ぶことだ。
物語における、
組織図、人間関係、基本設定などは、
すべてこのように書ける。
だがこれが「物語を理解した」ことには、
僕はならないと思う。
静的な設定を理解しただけにすぎない。
だから「理解」を拡張するべきだと考えている。
ここまでの、拡張していない理解を、
静的理解と呼ぶことにする。
ほとんどの人は、
理解することを、静的理解だと理解している。
テストの暗記や、書類を書くことなどは、
これらの理解で可能だからだ。
Chat GPTがしている理解も、
この静的理解であろう。
この静的理解はソースを辿ることができ、
正誤はそのソースから判断することができる。
おそらく、
我々が扱う言語は、
静的理解の記述までが限界で、
次に拡張する動的理解までは、
言語による理解を超えていると、
僕は考えている。
その動的理解とは、
「頭の中に仮想的なその理解対象をつくりあげて、
頭の中の仮想空間で動かして予想したことと、
現実が一致するようなこと。
つまり、頭の中に現実に即した正確なモデルをつくりあげること」
だ。
これとこれがこうしたらこうなるだろうな、
やっぱそうなったか、
が、「理解の一部」であるということだ。
予測が間違えるなら、
モデルのどこかに不備があり、
理解は不十分であり、
どんな大体の現実にも対応するなら、
よく理解している、ということである。
たとえば、車の整備や医学は、
この動的理解が不可欠だろう。
動くモデルを頭の中で動かして、
現実の観察から得られた内部状態を推定して、
何かオペレーションを加えて、
内部平行を移動させて、
異常を正常にするわけだ。
「こんなことを言ったらあの人はこんな反応をするだろう」
も動的理解の一つだ。
だけど人は気分次第でリアクションが変わるので、
正確な予想は難しい。
「あなたがこういうの好きと思って」は予測できるが、
それはどちらかというと設定に近い静的理解だろう。
動的理解は、静的理解であるところの、
設定表にないことを予測する。
このように動き、こうなって、こうだろうと。
たとえばある時計の構造の理解は、
動的理解だろう。
部品名や役割の静的理解なんて基礎理解にすぎず、
この力がこうやってここに伝わり、
という理解をした上で、
故障箇所を特定して直したり、
別のパーツをはめたときにどういう挙動になるか、
予測できなければ、
その時計の機構を理解したとは言えない。
静的理解を関係理解、
動的理解をモデル的理解、
といってもよい。
で、
我々の言語は、
おそらく静的理解が限界だ、
というのが本論だ。
言語は概念や関係性の記述が限界で、
動的機序や仕組みの記述に向いてないと考える。
後者に向いてるのは、
設計図や楽譜だと思う。
シナリオが厄介なのは、
静的理解が限界の言語で記述するのに、
書くべき内容は動的理解だからではないか?
というのが僕の仮説だ。
シナリオを静的理解で記述すると、
設定を書いただけでおしまいになり、
関係性をひとめぐり書いたら終わりだろう。
せいぜい隠された事実が明らかになり、
意味がわかっておしまいだ。
容易に想像できる通り、
そんな物語はつまらない。
シナリオとは動的ななにかだ。
事件が起こり平衡がくずれて、
それを立て直し、解決するために、
てんやわんやの騒動を繰り広げて、
ついにはやっと落ち着くまでの、
動的軌跡を編むことである。
これは静的理解ではおいつかず、
言語で理解することは大変難しいのでは?
と最近考えている。
で、じゃあどうすれば書ける?
というのが僕らの興味だ。
僕は、
「手振り身振りで理解する」という、
身体的理解をおすすめする。
「ここからこうなって、それからああなって」
という展開の説明を、
手を振りながらやってみるとよい。
あるいは、
「ここからここに行って、一方こっちでは」
なんてときは、
実際に数歩歩いて、体の回転などで身振りをするとよい。
つまり、頭でなくて、体で理解する方法論だ。
おそらくだけど、
言語では静的理解しかできないけど、
体だと動的理解ができるのでは?
と僕は考えている。
時計の歯車を理解する時も、
動いてる様を手で真似すると、
理解が早まると考える。
なんなら歩いてもいい。
物語とは、一人の、ないし複数の人の「体験」である。
体験は時間軸を持ち、
静的理解ではない。
だから、体で理解するのが、
実は正しいアプローチなのでは?
と最近考えている。
アナログの時代は、
みんな身体感覚を持っていて、
それを前提に後付けで頭による静的理解を足していった。
しかしデジタル時代は、
頭でっかちで静的理解しかなく、
身体感覚による動的理解が、
衰退してるのではないか?
とすら考える。
体で書け、というと実に適当な言い方だけど、
頭による理解、言語による理解だけでは、
物語の動的理解は難しいのでは、
と僕は考えている。
歩いて、走って、転がって、
手を振って、曲げて、足を組んで、曲げて、
伸ばして縮めて、
みたいなことと、物語をつなげたほうが、
うまく物語を理解して、
自由に操作できるのではないか、
と考えている。
机の上でいくら考えてもわからないとき、
歩くと思いつくことがあるのも、
こういうことじゃないかなあと思う。
たぶん、歩いて前に進む感覚が、
物語の進む感覚に近いのではないか?
と僕は考える。
もし行き止まりや、進む方向が違うなと思ったら、
歩みを止めて立ち止まったり、
一旦物理的に引き返したりして、
別の道を行ってみればいいのではないか?
その感覚で、別のアイデアが思いつくことがよくある気がするんだよね。
この感覚そのものは、
言語のどこを分解しても入ってないと僕は感じるんだよね。
どんな物語の理解を見ても、
静的な解説しかしていないのをよく見る。
それは、ほんとに静的理解しかしてないか、
動的理解をしてても静的理解しか語れないのかの、
区別ができない。
ちょうどchat GPTが、嘘をついているようにだ。
あなたは、言語で語ることが仕事ではない。
最終的には言語に落とし込むけど、
それ以前に、
「(架空の世界で)やってみて、
(架空の世界で)結果を出す」
ことがシナリオの仕事じゃないかと思うんだよね。
2023年03月17日
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