2023年03月22日

後半のほうが文字が少なくなる理由

カオスに発散したものが、
秩序を持つ方向に収束するからだとは思う。
もう少し具体的に。


前半戦は「世界を広げる」「風呂敷を広げる」ことが作者の狙いだったりする。
なるべく世界を広く見せて、
とても面白そうにつくることは、とてもやることだ。

世界だけではない。
登場人物の性格や関係性も、
使われる以上に広く設定して、
豊かな人間関係、性格に見せることはよくあることである。
どうやったら広く見せられるか、
というとわりと簡単で、
「両極端なものを見せる」とよい。
つまり、
世界はここからここまでだと見せるために、
あえて両極端なものを描くわけ。

つまり、
前半戦は、世界の両端が描かれる。
その間が世界であると規定される。
後半戦は、その世界の中で、
ひとつに収束していこうとする。

これが、前半戦のほうが文字数が多くなる理由だ。
世界の両極端を描いている時間ぶん、
文字数が多いということだね。

一度設定した「世界の端」に、二度目に行くことは多分ない。
物理的な世界の端もあれば、
「とんでもなく悲しくなる」「とんでもなく喜ぶ」
などの、感情の振れ幅の端を描くこともあるだろう。
前半戦は幸せだったのに、
後半戦はどんどん不幸になり、
「あの時の幸せをもう一度」なんて思うとき、
世界の端はその幸せになっているということ。

こうした、世界の端の振り幅のために、
前半戦があるといってもよい。

風呂敷を畳むことは後半戦の仕事だが、
風呂敷をうまく広げるのは前半戦の仕事だ。
畳めるように広げる、
という注意点もあれば、
なるべく端から端まで見せて、
世界を広く見せること、
も風呂敷の広げ方として正しいと思う。

そうして広げたカオスが、
ひとつの秩序に収束していくのが、
後半戦だ。
だから、前半戦のほうが、
端っこに寄り道している分、
文字数がかかるわけ。

カオスは広がりがある。
収束は一点へとまとまっていく。
この前半と後半のコントラストが、
物語の醍醐味でもある。



また、単純に、
「あとあと使えるかもしれないので、
今は自由度を広げとこ」
という作者の安心のために、
前半が沢山描写がある場合があり、
これはリライト時にカットするべき部分である。

「それがあることで豊かに見える」と、
「それはあとで使わないためなくても良い」の、
両方の判断をするべきところ。

カットしたらストーリーに対してソリッドになり、
テンポもあがるが、
世界の両端を失うと、
世界が単純でつまらなく見えることもある。

その辺を見極めてのカットをするべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック