カオスに発散したものが、
秩序を持つ方向に収束するからだとは思う。
もう少し具体的に。
前半戦は「世界を広げる」「風呂敷を広げる」ことが作者の狙いだったりする。
なるべく世界を広く見せて、
とても面白そうにつくることは、とてもやることだ。
世界だけではない。
登場人物の性格や関係性も、
使われる以上に広く設定して、
豊かな人間関係、性格に見せることはよくあることである。
どうやったら広く見せられるか、
というとわりと簡単で、
「両極端なものを見せる」とよい。
つまり、
世界はここからここまでだと見せるために、
あえて両極端なものを描くわけ。
つまり、
前半戦は、世界の両端が描かれる。
その間が世界であると規定される。
後半戦は、その世界の中で、
ひとつに収束していこうとする。
これが、前半戦のほうが文字数が多くなる理由だ。
世界の両極端を描いている時間ぶん、
文字数が多いということだね。
一度設定した「世界の端」に、二度目に行くことは多分ない。
物理的な世界の端もあれば、
「とんでもなく悲しくなる」「とんでもなく喜ぶ」
などの、感情の振れ幅の端を描くこともあるだろう。
前半戦は幸せだったのに、
後半戦はどんどん不幸になり、
「あの時の幸せをもう一度」なんて思うとき、
世界の端はその幸せになっているということ。
こうした、世界の端の振り幅のために、
前半戦があるといってもよい。
風呂敷を畳むことは後半戦の仕事だが、
風呂敷をうまく広げるのは前半戦の仕事だ。
畳めるように広げる、
という注意点もあれば、
なるべく端から端まで見せて、
世界を広く見せること、
も風呂敷の広げ方として正しいと思う。
そうして広げたカオスが、
ひとつの秩序に収束していくのが、
後半戦だ。
だから、前半戦のほうが、
端っこに寄り道している分、
文字数がかかるわけ。
カオスは広がりがある。
収束は一点へとまとまっていく。
この前半と後半のコントラストが、
物語の醍醐味でもある。
また、単純に、
「あとあと使えるかもしれないので、
今は自由度を広げとこ」
という作者の安心のために、
前半が沢山描写がある場合があり、
これはリライト時にカットするべき部分である。
「それがあることで豊かに見える」と、
「それはあとで使わないためなくても良い」の、
両方の判断をするべきところ。
カットしたらストーリーに対してソリッドになり、
テンポもあがるが、
世界の両端を失うと、
世界が単純でつまらなく見えることもある。
その辺を見極めてのカットをするべきだ。
2023年03月22日
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