表現上の余白とか、難しいことの話ではない。
あなた自信の余裕の話だ。
作者がいっぱいいっぱいか、
それとも余裕で書いているか、
という話だ。
いっぱいいっぱいのときは、勢いがあり、前のめりになっているのはいいが、
周りが見えていなくて、客観性がなく、
自分勝手な独りよがりになりがちだ。
余裕があるときは、その逆だ。
楽しませてあげようと、
色々なことに目端が利くだろう。
じらしたり、わざと遠回りしてヤキモキさせたりなどの、
駆け引きも出来るにちがいない。
抱かれる女の立場に立とう。
どっちが気持ちよいかだ。
余裕があるほうが大人なセックスをするだろう。
ガツガツで余裕がないものではなく、
身体を任せて大丈夫と安心できる、
いい体験ができるはずだ。
なんかいい感じ、と思っている間に、
色々と翻弄されて、気づいたら終わっている、
極上の体験である。
色々と準備して実行するほうは面倒だが、
味わうほうは極楽だろうね。
一方、余裕がないセックスは、
勝手に気持ちよくなってしまって、
こっちが盛り上がるとか関係なく、
自分だけ突っ走ってしまっているわけだ。
もちろん、
余裕をもて、
というのが結論である。
自分だけで精一杯になっている状態が、
他人を楽しませられるわけがない。
だから今余裕がないな、
と思う自覚も必要だ。
おそらく、やったことがないことを、
探り探りやっていくとき、余裕がないことになるだろうね。
じらしたり、計算づくになったり、
出来ないことのほうが多くなって、
アドリブで、ライブ感があり、
どこへ向かうかまったくわからない、
強引な感じになっていくだろう。
さて。
逆を考えよう。
余裕があるものは、
落ち着き、ウェルメイドではあるが、
落ち着きすぎて、枯れたものになっている可能性もなくもない。
出来はいいが、同じことの微妙な違いをえんえんやっている、
退屈なものになっている可能性もある。
余裕がないが、勢いがあるものは、
勢いだけで他人を巻き込み、
それだけで夢中にさせる吸引力を持つことがある。
若さの輝きのようなものだ。
両方を使い分けろ、
というのが僕の考えだ。
もちろん、技術を磨き、経験を積み、
余裕があって、計算づくで、
観客を翻弄する面白さをウェルメイドでつくることに、
反対する理由はない。
できれば世の中の脚本はすべてそうなってもらいたい。
つまらないものは独りよがりのものが多いからね。
でもそれだけでは、
一歩引っ込んだ、押しの弱いものになることもあるぞ、
ということだ。
時に荒々しく、余裕がないものでも、
目を離せない、不安定な魅力というのも世の中にはあるからだ。
こんなに勢いがあるものを見たことがない、
というようなものは、それだけで人を引き付ける。
「全盛期の〇〇」なんてものは、たいていそうだよね。
技術じゃなくて、生きる者としてのエネルギーの爆発だけで生きている状態。
そういうものも、意図的にやろう。
つまりは計算づくで、
余裕がある組み立てをしておいて、
いざ執筆時には神が降りたように、
勢いよく書いていくのがベストで、
情熱と冷静を使い分けろ、
ということを言おうとしている。
常に余裕をもて。
計算しつくして、相手を楽しませろ。
それは客観性があるほどに、余裕がないとできないことだ。
常に余裕がない状態で、いっぱいいっぱいで書け。
その生きる者だけが放つオーラや炎のようなものが、
人を引き付けてやまないことがある。
どちらにせよ、
観客を牽引するのだ。
やり方は問わない。
両方できて、使い分けられるのがベストだと思うだけのことだ。
2023年03月25日
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