2023年03月25日

あなたの表現には余裕があるか?

表現上の余白とか、難しいことの話ではない。
あなた自信の余裕の話だ。


作者がいっぱいいっぱいか、
それとも余裕で書いているか、
という話だ。

いっぱいいっぱいのときは、勢いがあり、前のめりになっているのはいいが、
周りが見えていなくて、客観性がなく、
自分勝手な独りよがりになりがちだ。

余裕があるときは、その逆だ。
楽しませてあげようと、
色々なことに目端が利くだろう。
じらしたり、わざと遠回りしてヤキモキさせたりなどの、
駆け引きも出来るにちがいない。

抱かれる女の立場に立とう。
どっちが気持ちよいかだ。

余裕があるほうが大人なセックスをするだろう。
ガツガツで余裕がないものではなく、
身体を任せて大丈夫と安心できる、
いい体験ができるはずだ。
なんかいい感じ、と思っている間に、
色々と翻弄されて、気づいたら終わっている、
極上の体験である。
色々と準備して実行するほうは面倒だが、
味わうほうは極楽だろうね。

一方、余裕がないセックスは、
勝手に気持ちよくなってしまって、
こっちが盛り上がるとか関係なく、
自分だけ突っ走ってしまっているわけだ。


もちろん、
余裕をもて、
というのが結論である。
自分だけで精一杯になっている状態が、
他人を楽しませられるわけがない。

だから今余裕がないな、
と思う自覚も必要だ。
おそらく、やったことがないことを、
探り探りやっていくとき、余裕がないことになるだろうね。
じらしたり、計算づくになったり、
出来ないことのほうが多くなって、
アドリブで、ライブ感があり、
どこへ向かうかまったくわからない、
強引な感じになっていくだろう。

さて。
逆を考えよう。
余裕があるものは、
落ち着き、ウェルメイドではあるが、
落ち着きすぎて、枯れたものになっている可能性もなくもない。
出来はいいが、同じことの微妙な違いをえんえんやっている、
退屈なものになっている可能性もある。

余裕がないが、勢いがあるものは、
勢いだけで他人を巻き込み、
それだけで夢中にさせる吸引力を持つことがある。
若さの輝きのようなものだ。

両方を使い分けろ、
というのが僕の考えだ。

もちろん、技術を磨き、経験を積み、
余裕があって、計算づくで、
観客を翻弄する面白さをウェルメイドでつくることに、
反対する理由はない。
できれば世の中の脚本はすべてそうなってもらいたい。
つまらないものは独りよがりのものが多いからね。

でもそれだけでは、
一歩引っ込んだ、押しの弱いものになることもあるぞ、
ということだ。

時に荒々しく、余裕がないものでも、
目を離せない、不安定な魅力というのも世の中にはあるからだ。
こんなに勢いがあるものを見たことがない、
というようなものは、それだけで人を引き付ける。
「全盛期の〇〇」なんてものは、たいていそうだよね。
技術じゃなくて、生きる者としてのエネルギーの爆発だけで生きている状態。
そういうものも、意図的にやろう。

つまりは計算づくで、
余裕がある組み立てをしておいて、
いざ執筆時には神が降りたように、
勢いよく書いていくのがベストで、
情熱と冷静を使い分けろ、
ということを言おうとしている。

常に余裕をもて。
計算しつくして、相手を楽しませろ。
それは客観性があるほどに、余裕がないとできないことだ。
常に余裕がない状態で、いっぱいいっぱいで書け。
その生きる者だけが放つオーラや炎のようなものが、
人を引き付けてやまないことがある。

どちらにせよ、
観客を牽引するのだ。
やり方は問わない。
両方できて、使い分けられるのがベストだと思うだけのことだ。
posted by おおおかとしひこ at 08:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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