2023年03月30日

調べ物は、「なぜ」が出ないまでやる

調べ物の原則だと思う。


どこまで調べ上げるべきか?
調べものをしているとき、
どこで打ちきるかは難しい。

調べたものを全部使うわけにはいかない。
それは単なるレポートであり、
作品を書いていることではない。
調べたものの1割も使わないことがほとんどだ。

しかし、使うために調べているのではないことを、
肝に銘じたほうがよい。

調べものは、
調べる対象を理解するためにある。



あることについて調べたいとしよう。
wikiなどを引くのが簡単だろう。
その他解説ブログをみたり、
公式サイト的な解説があればそれも見るだろう。
それだけか?
多分そうじゃない。

それを調べているうちに、何かしらの疑問が出てくるものだからだ。
「これはこういうことだろうか?」などと思ったら、
それをまた調べていくことになる。
で、また疑問点が出てきて、次を調べることになる。
そのうち前のやつとつながってきたりして、
なるほどそういうことか、と納得がいったりする。

調べものは、だからある意味勉強に似ている。
勉強ができない人は、調べものはできないと思う。

むしろ勉強とは、調べもののやり方の訓練でもあったかもしれない。
とても簡単なことで、
「理解するまで調べる」までやれるかどうかにかかっていると思う。


今和歌に関することを書いているのだが、
疑問に思うことがたくさん出てくる。
これはこうなのかしら、これはああなのか、
などと重箱の隅が気になり、
どんどん調べものは増えていく。

でもそこで、「これとこれは関係していた」なんてことが分かると、
なるほどなあ、と底を知ることになる。
ああ、調べものの底まで来たぞ、的な。

調べものは、基本ここまでやるべきだ。
正確に調べたかとか、ここまで調べたかとかに、
基準はない。
あくまで、「あなたが納得したところまで」を調べることである。
なぜなら、
「一度理解した人の話は面白い」からだ。

よくわかっていない部分があるなら、
責任をもって話すことは出来ないよね。
全部わかっているから、
必要なところだけ切り貼りしてうまく話せるんだよね。

疑問がある部分や、突っ込みを受けたとしても、
そもそも前に自分が潰した部分だったりするから、
「ああ、これはこうです」なんて答えることが可能なわけ。


自分が疑問に思うことは、
全部潰しておこう。
使わないかもしれないが、
その対象を理解することに役立つ。

それはその作品だけでなく、
全然別の作品を書くときのヒントにさえなるかもしれない。
そうやって、作家は物知りになっていくんだろうね。

ものを知らない人は作家になれないか?
僕はそうは思わない。
「何故だろう?」をとことんまで調べられない人が、
作家になれないだけだと思うよ。

そうじゃなければ、
自分の詳しい、ごく狭い範囲のことしか書けなくなってしまう。
責任が取れないからね。
でも責任がとれるくらい「なぜ?」を潰して調べていれば、
なんにでも対応できることになるよね。
調べものは、そこまでやっておくべきだ。



物語の都合が変わったときも、
その対象をよく理解していれば、
別の方法だってすぐに思いつくものである。
使うところしか調べていないと、
すぐに穴や矛盾にぶち当たる。
付け焼刃とはこのことだ。


基本は小学生のようであればよい。
「あれはああだとしたら、これはなんで?」
という風に、疑問に思うところを調べていけばいいいだけのこと。

そのうち、
「まだ分かっていないこと」までたどりつくかもしれない。
宇宙の端とか、本能寺の真の犯人とか。
じゃあそこは自由に考えてよい、ということにも気づくだろう。
仮説を適当につくり、
それが現状と矛盾しないようにつくれれば、
リアリティは増す。


すでにあるものを適当に改変することは、
ちゃんと調べたのかよ、とフル突っ込みを浴びるだろう。
ちゃんと調べて、なかったら自由。
あるなら、あるものをきちんと把握する。
それだけの事だよね。
「調べましたが、よくわかりませんでした!」
じゃねえよな。

もちろん、調べつくしたうえで、
うまく嘘をつくのも自由だよ。
それは嘘をついている自覚のある、プロの嘘だからね。
posted by おおおかとしひこ at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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