調べ物の原則だと思う。
どこまで調べ上げるべきか?
調べものをしているとき、
どこで打ちきるかは難しい。
調べたものを全部使うわけにはいかない。
それは単なるレポートであり、
作品を書いていることではない。
調べたものの1割も使わないことがほとんどだ。
しかし、使うために調べているのではないことを、
肝に銘じたほうがよい。
調べものは、
調べる対象を理解するためにある。
あることについて調べたいとしよう。
wikiなどを引くのが簡単だろう。
その他解説ブログをみたり、
公式サイト的な解説があればそれも見るだろう。
それだけか?
多分そうじゃない。
それを調べているうちに、何かしらの疑問が出てくるものだからだ。
「これはこういうことだろうか?」などと思ったら、
それをまた調べていくことになる。
で、また疑問点が出てきて、次を調べることになる。
そのうち前のやつとつながってきたりして、
なるほどそういうことか、と納得がいったりする。
調べものは、だからある意味勉強に似ている。
勉強ができない人は、調べものはできないと思う。
むしろ勉強とは、調べもののやり方の訓練でもあったかもしれない。
とても簡単なことで、
「理解するまで調べる」までやれるかどうかにかかっていると思う。
今和歌に関することを書いているのだが、
疑問に思うことがたくさん出てくる。
これはこうなのかしら、これはああなのか、
などと重箱の隅が気になり、
どんどん調べものは増えていく。
でもそこで、「これとこれは関係していた」なんてことが分かると、
なるほどなあ、と底を知ることになる。
ああ、調べものの底まで来たぞ、的な。
調べものは、基本ここまでやるべきだ。
正確に調べたかとか、ここまで調べたかとかに、
基準はない。
あくまで、「あなたが納得したところまで」を調べることである。
なぜなら、
「一度理解した人の話は面白い」からだ。
よくわかっていない部分があるなら、
責任をもって話すことは出来ないよね。
全部わかっているから、
必要なところだけ切り貼りしてうまく話せるんだよね。
疑問がある部分や、突っ込みを受けたとしても、
そもそも前に自分が潰した部分だったりするから、
「ああ、これはこうです」なんて答えることが可能なわけ。
自分が疑問に思うことは、
全部潰しておこう。
使わないかもしれないが、
その対象を理解することに役立つ。
それはその作品だけでなく、
全然別の作品を書くときのヒントにさえなるかもしれない。
そうやって、作家は物知りになっていくんだろうね。
ものを知らない人は作家になれないか?
僕はそうは思わない。
「何故だろう?」をとことんまで調べられない人が、
作家になれないだけだと思うよ。
そうじゃなければ、
自分の詳しい、ごく狭い範囲のことしか書けなくなってしまう。
責任が取れないからね。
でも責任がとれるくらい「なぜ?」を潰して調べていれば、
なんにでも対応できることになるよね。
調べものは、そこまでやっておくべきだ。
物語の都合が変わったときも、
その対象をよく理解していれば、
別の方法だってすぐに思いつくものである。
使うところしか調べていないと、
すぐに穴や矛盾にぶち当たる。
付け焼刃とはこのことだ。
基本は小学生のようであればよい。
「あれはああだとしたら、これはなんで?」
という風に、疑問に思うところを調べていけばいいいだけのこと。
そのうち、
「まだ分かっていないこと」までたどりつくかもしれない。
宇宙の端とか、本能寺の真の犯人とか。
じゃあそこは自由に考えてよい、ということにも気づくだろう。
仮説を適当につくり、
それが現状と矛盾しないようにつくれれば、
リアリティは増す。
すでにあるものを適当に改変することは、
ちゃんと調べたのかよ、とフル突っ込みを浴びるだろう。
ちゃんと調べて、なかったら自由。
あるなら、あるものをきちんと把握する。
それだけの事だよね。
「調べましたが、よくわかりませんでした!」
じゃねえよな。
もちろん、調べつくしたうえで、
うまく嘘をつくのも自由だよ。
それは嘘をついている自覚のある、プロの嘘だからね。
2023年03月30日
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