2023年03月17日

【薙刀式】手癖

その配列が肌に合うか合わないかって、
指運びと自分の手癖が合うか合わないか、
が大きなファクターになるんじゃないか。


ペンが手に合うか、みたいなことか。
軸の太さや凹み方や重心の位置や、
ペン先の滑らかさなど、
微妙なパラメータで、
合うペンと合わないペンがある。

それはたぶん、指の長さや筋力バランスや、
神経系統の何かが合わない、みたいなことだろう。


配列は論理的なもの、
つまり、「この言葉はこの順に指を動かす」
を定めたものだ。
物理キーボードとは関係ないが、
似たようなことかなと思う。

配列は一文字一文字の場所を定めたものだけど、
使う人間にとっては、
「この言葉はこの順に指を動かす」
ものである。

一文字一文字の場所ではなく、
言葉と指遣いの一対一対応が配列だ。
もっというと、文単位での指遣いの、
一対一対応みたいな感覚がある。

僕は手話や速記をやらないが、
手の動かし方や筆跡の動かし方が、
言葉と一対一対応してるという点では、
同じだと考えている。

この、動きと言葉の対応に、
合う合わないがあるんじゃないかと思っている。


極論、「右」という言葉が左手のみで、
「左」という言葉が右手のみだと、
混乱するんじゃないか。
そんな感じ。

(現在薙刀式では、「み」「き」は拗音の関係で左手にあり、
これが気に入っていない。
ただ濁音化でJを使うので、左手オンリーじゃないのが、
救いかな。これが濁音も左だったら、
たぶん改造すると思う)


ローマ字配列でも、
左子音右母音派と、
左母音右子音派がいる。

僕は前者なので、後者を使うと違和感が強い。
論理的には子音の方が多くて、
器用で速い右手がそれを担当する合理は理解するものの、
直感的に「文字は左から右に書く」
(文章ではなく、カナの一画の話)と思ってしまうので、
右→左の動線にとても違和感がある。

とはいえ、左の指の感覚を広範囲に使うのは嫌なので、
カタナ式は、左手は人差し指と中指と親指しか使わない、
ようにした。

手癖は手だけじゃなくて、
「脳の直感を指でどう表現するか」
というマッピングの話なので、
こうしたことが起こるのではと思う。


左右は一つの例だけど、
「この言葉はこの指の動きで書く」に、
違和感があるかどうか、だと思う。

一人称の書きやすさは、
僕はかなりいいと思ってるけど、
先日の例のようにいまいち合わない人もいる。
打鍵法が異なる可能性は全然ある。

そしてその打鍵法の強制は、
発音の強制のように、
脳に混乱を及ぼし、不具合を生じさせることもあると思う。
(どもりなんかはその典型例じゃないか。
どもりの原因が100%そうではないだろうが)

自分のナチュラルな動きに合わない配列は、
合わない靴のように大変なことになると思う。
僕は昔合わない靴を履いてて、
外反母趾になりかけた。
以来自分に合う靴を探して、
今は同じブランドしか履かなくなった。
いまだに親指は内側に曲がったまま、
まっすぐには伸びない。

たぶん歩くのや走るのは、
人より苦痛を覚えるんじゃないか。
表面上はたいして変わらなくても、
違和感や不具合は蓄積するだろうね。

走る時に「足で地面を掴む感覚」は、
たぶん人より弱いだろう。



僕が親指シフトを試した時、
小指や薬指に帰着して、また出発していく流れに、
どうしても馴染めなかった。
そもそも弱い指を使うのもいやだったが、
それ経由の言葉が全然直感と違ったからだ。

極論、重要な言葉を、
一回足の小指を経由する、ってなったら、
不快で辛いだろう。そんな感覚。


なので、
自分の「この言葉はこんな感じで書きたい」
という言葉のクオリアみたいなのと、
配列の「この言葉はこの指の順番で書く」
みたいなクオリアが、
一致しないと大変だと思うんだよね。


薙刀式はある程度合理的で、
ある程度簡単で、
わりとみなさんが手を出しやすいように作ってるつもりだけど、
「この言葉が自分の手の感覚に合わないんだよなあ」
というケースもあると思う。

そういう時は他の配列に手を出すのもいいと思う。
ただその配列が自分の手の感覚に(以下略


配列は有限個並び替え問題なので、
良いものの裏には必ず悪いものがある。
悪いものの為に良いものを捨てるか、
良いものの為に悪いものを我慢するかは、
まったく作者の感覚だろうね。

耐えられないほど合わないものがあるなら、
外反母趾になる前に、
配列を変えてみることをすすめる。
もちろん他の配列から薙刀式を試してもらっても構わない。

自分を変えてもいいし、
環境を変えてもいい。
ただ生理的な部分って変えられないと思うんだよね。
言葉は思考であり、
思考と運動の一対一対応だから、
つまり打鍵スタイルはダンススタイルと同じなわけ。
(ダンスが言葉と一対一対応ではないけど)



で、ある程度大人になったら、
自分の手癖ダンスはある程度固定されてるよね。

僕がqwertyローマ字のブラインドタッチに挫折して、
配列道に入ったのは、
qwertyダンスが、僕の手癖にあまりにも合わなかったからだろう。

既存の配列が沢山あることを知らずに、
まず理想のアルファベット配置があるやろ、
それは何か?
みたいに問いを立ててしまったのは、
創作者としての手癖のような気がする。

「○○みたいなものないの?」と検索する前に、
「それほど困難を感じなければ自分で作ってしまう」
手癖があるように思う。

タイパーたちの猛烈な指遣いを見ていて、
あれに手癖を合わせる人はすごいなあ、
変態だなあと思う。

性癖の合わない人と喧嘩しても意味がないのと同様、
配列は手癖である、
と考えると理解しやすい。


ただ難しいのは、
それなりにやって見てからじゃないと、
配列と手癖の一致は判断できないってことかな。

なのでトライアル一ヶ月あたりで、
続けるかどうか判断、みたいなことはありそう。

第一印象からスッと入れた配列に出会えた人は、
幸運だね。
そもそも手癖に癖が強くなかったのかもしれない。
僕は手癖が強くて、
癖の合わない配列ばかりだったんだろう。

合わない人は、
合う靴を探し続けるしかないのかもね。
あるいは自作か。

薙刀式をそのまま使わずに、
改造する人もいるのは、
微妙な何かが合う合わないがあるからだろう。

どういう言葉がどういう運指であるべきか、
次のマニュアルに乗っけて、
全解説はしたいと考えている。
それを見れば、「このつもりでここに置いた」が、
熟練しなくても読み取れるようなものを書きたい。

このへん、言語化がとても難しい領域だ。
posted by おおおかとしひこ at 14:57| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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