その配列が肌に合うか合わないかって、
指運びと自分の手癖が合うか合わないか、
が大きなファクターになるんじゃないか。
ペンが手に合うか、みたいなことか。
軸の太さや凹み方や重心の位置や、
ペン先の滑らかさなど、
微妙なパラメータで、
合うペンと合わないペンがある。
それはたぶん、指の長さや筋力バランスや、
神経系統の何かが合わない、みたいなことだろう。
配列は論理的なもの、
つまり、「この言葉はこの順に指を動かす」
を定めたものだ。
物理キーボードとは関係ないが、
似たようなことかなと思う。
配列は一文字一文字の場所を定めたものだけど、
使う人間にとっては、
「この言葉はこの順に指を動かす」
ものである。
一文字一文字の場所ではなく、
言葉と指遣いの一対一対応が配列だ。
もっというと、文単位での指遣いの、
一対一対応みたいな感覚がある。
僕は手話や速記をやらないが、
手の動かし方や筆跡の動かし方が、
言葉と一対一対応してるという点では、
同じだと考えている。
この、動きと言葉の対応に、
合う合わないがあるんじゃないかと思っている。
極論、「右」という言葉が左手のみで、
「左」という言葉が右手のみだと、
混乱するんじゃないか。
そんな感じ。
(現在薙刀式では、「み」「き」は拗音の関係で左手にあり、
これが気に入っていない。
ただ濁音化でJを使うので、左手オンリーじゃないのが、
救いかな。これが濁音も左だったら、
たぶん改造すると思う)
ローマ字配列でも、
左子音右母音派と、
左母音右子音派がいる。
僕は前者なので、後者を使うと違和感が強い。
論理的には子音の方が多くて、
器用で速い右手がそれを担当する合理は理解するものの、
直感的に「文字は左から右に書く」
(文章ではなく、カナの一画の話)と思ってしまうので、
右→左の動線にとても違和感がある。
とはいえ、左の指の感覚を広範囲に使うのは嫌なので、
カタナ式は、左手は人差し指と中指と親指しか使わない、
ようにした。
手癖は手だけじゃなくて、
「脳の直感を指でどう表現するか」
というマッピングの話なので、
こうしたことが起こるのではと思う。
左右は一つの例だけど、
「この言葉はこの指の動きで書く」に、
違和感があるかどうか、だと思う。
一人称の書きやすさは、
僕はかなりいいと思ってるけど、
先日の例のようにいまいち合わない人もいる。
打鍵法が異なる可能性は全然ある。
そしてその打鍵法の強制は、
発音の強制のように、
脳に混乱を及ぼし、不具合を生じさせることもあると思う。
(どもりなんかはその典型例じゃないか。
どもりの原因が100%そうではないだろうが)
自分のナチュラルな動きに合わない配列は、
合わない靴のように大変なことになると思う。
僕は昔合わない靴を履いてて、
外反母趾になりかけた。
以来自分に合う靴を探して、
今は同じブランドしか履かなくなった。
いまだに親指は内側に曲がったまま、
まっすぐには伸びない。
たぶん歩くのや走るのは、
人より苦痛を覚えるんじゃないか。
表面上はたいして変わらなくても、
違和感や不具合は蓄積するだろうね。
走る時に「足で地面を掴む感覚」は、
たぶん人より弱いだろう。
僕が親指シフトを試した時、
小指や薬指に帰着して、また出発していく流れに、
どうしても馴染めなかった。
そもそも弱い指を使うのもいやだったが、
それ経由の言葉が全然直感と違ったからだ。
極論、重要な言葉を、
一回足の小指を経由する、ってなったら、
不快で辛いだろう。そんな感覚。
なので、
自分の「この言葉はこんな感じで書きたい」
という言葉のクオリアみたいなのと、
配列の「この言葉はこの指の順番で書く」
みたいなクオリアが、
一致しないと大変だと思うんだよね。
薙刀式はある程度合理的で、
ある程度簡単で、
わりとみなさんが手を出しやすいように作ってるつもりだけど、
「この言葉が自分の手の感覚に合わないんだよなあ」
というケースもあると思う。
そういう時は他の配列に手を出すのもいいと思う。
ただその配列が自分の手の感覚に(以下略
配列は有限個並び替え問題なので、
良いものの裏には必ず悪いものがある。
悪いものの為に良いものを捨てるか、
良いものの為に悪いものを我慢するかは、
まったく作者の感覚だろうね。
耐えられないほど合わないものがあるなら、
外反母趾になる前に、
配列を変えてみることをすすめる。
もちろん他の配列から薙刀式を試してもらっても構わない。
自分を変えてもいいし、
環境を変えてもいい。
ただ生理的な部分って変えられないと思うんだよね。
言葉は思考であり、
思考と運動の一対一対応だから、
つまり打鍵スタイルはダンススタイルと同じなわけ。
(ダンスが言葉と一対一対応ではないけど)
で、ある程度大人になったら、
自分の手癖ダンスはある程度固定されてるよね。
僕がqwertyローマ字のブラインドタッチに挫折して、
配列道に入ったのは、
qwertyダンスが、僕の手癖にあまりにも合わなかったからだろう。
既存の配列が沢山あることを知らずに、
まず理想のアルファベット配置があるやろ、
それは何か?
みたいに問いを立ててしまったのは、
創作者としての手癖のような気がする。
「○○みたいなものないの?」と検索する前に、
「それほど困難を感じなければ自分で作ってしまう」
手癖があるように思う。
タイパーたちの猛烈な指遣いを見ていて、
あれに手癖を合わせる人はすごいなあ、
変態だなあと思う。
性癖の合わない人と喧嘩しても意味がないのと同様、
配列は手癖である、
と考えると理解しやすい。
ただ難しいのは、
それなりにやって見てからじゃないと、
配列と手癖の一致は判断できないってことかな。
なのでトライアル一ヶ月あたりで、
続けるかどうか判断、みたいなことはありそう。
第一印象からスッと入れた配列に出会えた人は、
幸運だね。
そもそも手癖に癖が強くなかったのかもしれない。
僕は手癖が強くて、
癖の合わない配列ばかりだったんだろう。
合わない人は、
合う靴を探し続けるしかないのかもね。
あるいは自作か。
薙刀式をそのまま使わずに、
改造する人もいるのは、
微妙な何かが合う合わないがあるからだろう。
どういう言葉がどういう運指であるべきか、
次のマニュアルに乗っけて、
全解説はしたいと考えている。
それを見れば、「このつもりでここに置いた」が、
熟練しなくても読み取れるようなものを書きたい。
このへん、言語化がとても難しい領域だ。
2023年03月17日
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