文句言ってもしょうがないので少し考えた。
仮面ライダーのテーマはなんだろう?
自分を産んだ親への復讐だ。
つまり古典的には「親殺し」の物語である。
親は悪いもので、乗り越えるべきものだ。
こうして人類は進化してきた。
それと、70年代特有の、
「若者の疎外感」があったと思う。
若者はいつも疎外される。
既得権益があり、
そこに入れるのは言うことを聞くスネ夫か、
綺麗で可愛い女だけだ。
そこに入れなかった若者は、
既成の枠組みに入れず、自分を認めてくれる者もいなくて、
孤立する。
この苦しみと、悪たる親殺しの大目的がクロスするのが、
大きくいえば仮面ライダーの枠組みだ。
実はこれはスターウォーズ三部作と同じテーマである。
ていうか、この枠組み自体は、
70年代にポピュラーな枠組みであった。
戦後世代の若者が、
すでに決まってしまった世界に、
無力でなにも影響させられないことの、
反動としての物語だったと思う。
現実でそれを転覆しようとしたのが、
タクシードライバーや俺たちには明日はない、
架空の世界で親殺しに至ったのが、
スターウォーズと仮面ライダー、という枠組みだ。
親殺しではないが、ロッキーもその系譜である。
つまりアメリカンニューシネマの枠組みだ。
仮面ライダーを21世紀にリブートするならば、
このテーマ性を失うことなく、
現代にアップデートするべきだろう。
今の若者の疎外とはなにで、
どうすることがゴールかを考えれば良い。
何者にもなれないアイデンティティの問題は、
古今東西の若者のテーマだ。
そして現代的なものといえば承認欲求だろう。
じゃあ本郷猛のゴールは、
YouTuberやインフルエンサーになることか?
それもひとつある。
インフルエンサーになることで、
嫉妬の塊であるところの、別の人の闇と対峙する物語もありえる。
しかしそれはどちらかといえばキックアスが持つテーマ性であり、
仮面ライダーのテーマとはやや離れる。
ということは、
「多くの大衆に誤解されたままでも構わないが、
たった一人の愛する者にだけは認められる」
ことが、現代的な承認欲求のもう一つの形だろう。
(これを利用したのがカルト宗教だ)
その相手とは緑川瑠璃子以外にありえない。
つまり今回の仮面ライダーは、
愛する者と逃避行しながら、
父親殺しを果たす物語であればよい。
浜辺美波が濡れ場を受け入れるかは知らないが、
猛と瑠璃子は愛で結ばれるべきだ。
着替えを覗くとか覗かないとか、
中学生みたいなことやってないで、
ガッツリセックスするべきだったろう。
瑠璃子によるある種のカルト的洗脳と、
お話はスレスレになることになろうか。
それでも愛という誤解を抱いたまま、
猛は親殺しを果たし、
二人で知らない国へ行けば良い。
なおゲルショッカーがすぐに立ち上がるため、
続きは作ろうと思えば作れる。
今回みたいに「彼らの戦いはつづく」エンドにする必要はなく、
親殺しのカタルシスは味合わせるべきだ。
この主軸で行くならば、
本郷猛は会社員をやめたコンビニ店員あたりだろう。
そこに政治家みたいな老害が客としてやってきて、
罵倒されるのだ。
「お前らみたいな若者は掃いて捨てるほどいる」と。
その議員こそ、国民背番号制を導入して、
国民を支配下においた張本人であった。
(もちろんショッカーと結託している)
老害にキレた猛はその議員を殴ってしまう。
店で大問題になり、猛は逃走。
逃げた先でトラックに轢かれ、死亡する。
気がついたらショッカーの改造ベッド。
「ちょうどいい検体があり、
バッタ男としてフランケンができたよ」と緑川博士。
だが瑠璃子が猛を逃す。
二人の逃避行のはじまりである。
緑川博士はそのまま死神博士になってもよい。
議員はラスボスでもいいし、
あっけなく死んでもいい。
ショッカーは科学組織である。
議員の庇護を受けながら武器商人をしている。
今回の武器は、AI、ドローン、改造人間。
AI制御のドローン(戦闘員のかわり)が主体で、
制圧兵器としての改造人間(ロボット工学と遺伝子融合)を、
サブに開発している。
ところがAIシステムが暴走して、
ショッカーを「人類幸福の道へ進む」組織と宣言した。
ということで大体つながるのでは?
ついでに議員の汚職を追っていた新聞記者一文字隼人が、
ショッカーに暗殺され、
同様に改造されれば良い。
ラスボスは遺伝子をいじりまくった猫や犬を飼ってるべきだよね。
バッタでもいいか。
誰が仮面ライダーをつくったのか?
緑川博士だろう。
直接には彼への復讐が目的になる。
しかしその力を使って正解か?
ということに彼は気づく。
緑川博士はマッドサイエンティストでもよいし、
ショッカーに入り込み正義の改造人間をつくっていたでもよい。
(前者が現代的で、後者が70年代的)
AIの破壊、政界の浄化を大目的にすればよい。
ということで、
大枠大体できたような気がする。
あとは瑠璃子とのラブストーリーを作れればいけそうだ。
原作物を映画にする場合、
それが現代的なテーマを扱っていればそのままでよいが、
古い原作の場合、
テーマが現代と乖離している可能性がある。
そのときは、
そのテーマを深く理解した上で、
それを現代で表現するとしたら何か?
を考えるべきだと僕は思う。
その際には、原作のテーマは尊重して、
ただうまくアレンジすればよいだけだ。
そこに作家の主張を混ぜるべきではない。
(ガッチャマンとか今回のシン仮面ライダーのように)
若者のアイデンティティは時代にとらわれないテーマで、
それを、ショッカー、改造人間、本郷猛、
などのモチーフをどう使うか、が、
シナリオの組み立てというものだ。
シン仮面ライダーは、
ショッカーにも、改造人間の悲哀にも、
本郷猛にも向き合ってなかった。
たとえば交通事故で片足を失った、
義足のアスリートは改造人間か?
なんてテーマはすぐに思いつくのに、
改造人間そのものに向き合ってなかったと思う。
それは、
「ふつうからこぼれた人間」の物語だ。
それを疎外という。
人はふつうになれない。
だから物語は価値がある。
その理解を庵野はしていない。
2023年03月30日
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