2023年03月30日

試しにつくってみた仮面ライダー(「シン仮面ライダー」評11)

文句言ってもしょうがないので少し考えた。


仮面ライダーのテーマはなんだろう?

自分を産んだ親への復讐だ。

つまり古典的には「親殺し」の物語である。
親は悪いもので、乗り越えるべきものだ。
こうして人類は進化してきた。

それと、70年代特有の、
「若者の疎外感」があったと思う。

若者はいつも疎外される。
既得権益があり、
そこに入れるのは言うことを聞くスネ夫か、
綺麗で可愛い女だけだ。

そこに入れなかった若者は、
既成の枠組みに入れず、自分を認めてくれる者もいなくて、
孤立する。

この苦しみと、悪たる親殺しの大目的がクロスするのが、
大きくいえば仮面ライダーの枠組みだ。


実はこれはスターウォーズ三部作と同じテーマである。
ていうか、この枠組み自体は、
70年代にポピュラーな枠組みであった。
戦後世代の若者が、
すでに決まってしまった世界に、
無力でなにも影響させられないことの、
反動としての物語だったと思う。

現実でそれを転覆しようとしたのが、
タクシードライバーや俺たちには明日はない、
架空の世界で親殺しに至ったのが、
スターウォーズと仮面ライダー、という枠組みだ。
親殺しではないが、ロッキーもその系譜である。
つまりアメリカンニューシネマの枠組みだ。

仮面ライダーを21世紀にリブートするならば、
このテーマ性を失うことなく、
現代にアップデートするべきだろう。


今の若者の疎外とはなにで、
どうすることがゴールかを考えれば良い。

何者にもなれないアイデンティティの問題は、
古今東西の若者のテーマだ。
そして現代的なものといえば承認欲求だろう。

じゃあ本郷猛のゴールは、
YouTuberやインフルエンサーになることか?
それもひとつある。
インフルエンサーになることで、
嫉妬の塊であるところの、別の人の闇と対峙する物語もありえる。

しかしそれはどちらかといえばキックアスが持つテーマ性であり、
仮面ライダーのテーマとはやや離れる。

ということは、
「多くの大衆に誤解されたままでも構わないが、
たった一人の愛する者にだけは認められる」
ことが、現代的な承認欲求のもう一つの形だろう。
(これを利用したのがカルト宗教だ)

その相手とは緑川瑠璃子以外にありえない。
つまり今回の仮面ライダーは、
愛する者と逃避行しながら、
父親殺しを果たす物語であればよい。


浜辺美波が濡れ場を受け入れるかは知らないが、
猛と瑠璃子は愛で結ばれるべきだ。
着替えを覗くとか覗かないとか、
中学生みたいなことやってないで、
ガッツリセックスするべきだったろう。

瑠璃子によるある種のカルト的洗脳と、
お話はスレスレになることになろうか。
それでも愛という誤解を抱いたまま、
猛は親殺しを果たし、
二人で知らない国へ行けば良い。

なおゲルショッカーがすぐに立ち上がるため、
続きは作ろうと思えば作れる。
今回みたいに「彼らの戦いはつづく」エンドにする必要はなく、
親殺しのカタルシスは味合わせるべきだ。


この主軸で行くならば、
本郷猛は会社員をやめたコンビニ店員あたりだろう。
そこに政治家みたいな老害が客としてやってきて、
罵倒されるのだ。
「お前らみたいな若者は掃いて捨てるほどいる」と。
その議員こそ、国民背番号制を導入して、
国民を支配下においた張本人であった。
(もちろんショッカーと結託している)

老害にキレた猛はその議員を殴ってしまう。
店で大問題になり、猛は逃走。
逃げた先でトラックに轢かれ、死亡する。

気がついたらショッカーの改造ベッド。
「ちょうどいい検体があり、
バッタ男としてフランケンができたよ」と緑川博士。

だが瑠璃子が猛を逃す。
二人の逃避行のはじまりである。

緑川博士はそのまま死神博士になってもよい。
議員はラスボスでもいいし、
あっけなく死んでもいい。


ショッカーは科学組織である。
議員の庇護を受けながら武器商人をしている。
今回の武器は、AI、ドローン、改造人間。
AI制御のドローン(戦闘員のかわり)が主体で、
制圧兵器としての改造人間(ロボット工学と遺伝子融合)を、
サブに開発している。
ところがAIシステムが暴走して、
ショッカーを「人類幸福の道へ進む」組織と宣言した。

ということで大体つながるのでは?


ついでに議員の汚職を追っていた新聞記者一文字隼人が、
ショッカーに暗殺され、
同様に改造されれば良い。

ラスボスは遺伝子をいじりまくった猫や犬を飼ってるべきだよね。
バッタでもいいか。

誰が仮面ライダーをつくったのか?
緑川博士だろう。
直接には彼への復讐が目的になる。
しかしその力を使って正解か?
ということに彼は気づく。
緑川博士はマッドサイエンティストでもよいし、
ショッカーに入り込み正義の改造人間をつくっていたでもよい。
(前者が現代的で、後者が70年代的)

AIの破壊、政界の浄化を大目的にすればよい。



ということで、
大枠大体できたような気がする。
あとは瑠璃子とのラブストーリーを作れればいけそうだ。



原作物を映画にする場合、
それが現代的なテーマを扱っていればそのままでよいが、
古い原作の場合、
テーマが現代と乖離している可能性がある。

そのときは、
そのテーマを深く理解した上で、
それを現代で表現するとしたら何か?
を考えるべきだと僕は思う。

その際には、原作のテーマは尊重して、
ただうまくアレンジすればよいだけだ。
そこに作家の主張を混ぜるべきではない。
(ガッチャマンとか今回のシン仮面ライダーのように)

若者のアイデンティティは時代にとらわれないテーマで、
それを、ショッカー、改造人間、本郷猛、
などのモチーフをどう使うか、が、
シナリオの組み立てというものだ。

シン仮面ライダーは、
ショッカーにも、改造人間の悲哀にも、
本郷猛にも向き合ってなかった。

たとえば交通事故で片足を失った、
義足のアスリートは改造人間か?
なんてテーマはすぐに思いつくのに、
改造人間そのものに向き合ってなかったと思う。

それは、
「ふつうからこぼれた人間」の物語だ。
それを疎外という。


人はふつうになれない。
だから物語は価値がある。

その理解を庵野はしていない。
posted by おおおかとしひこ at 14:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック