人には、そういう欲望がある。
すべてのものは生々流転する。
それは何千年も受け継がれた、
世界の真実を見る世界観のひとつだ。
だけどその中で、
一瞬の煌めきを放った人、人々、時代がある。
それらは永遠には続かず、
生々流転の中に巻き込まれて衰退する。
だから人には欲望がある。
「時を止めたい」だ。
絵画や写真の原動力はそうだろう。
彫刻もそうに違いない。
建築も芸術とするならば、それもそうだ。
物語はどうだろう?
生々流転の、ある時点からある時点までを切り取ったものが、
物語である。
そこで描くべきことは変化だ。
Aからはじまり、Bになり、
…最終的に、Aとは全く違った状態Xに辿り着くのが、
面白い物語の条件だ。
それが変化すればするほど、
ダイナミックといわれる。
なぜ変化が必要なのか?
「同じだと飽きる」からである。
映画で最も退屈な瞬間はなにか?
「話が動かないとき」だ。
5分なら耐えられても、15分は無理だろう。
「はよ展開しろや」と思うに違いない。
これが、
「時を止めたい」ことと、
真逆であることに気づこう。
なぜ、サザエさん時空やドラえもん時空が存在するのか?
我々が「そこで時を止めたい」からだ。
戦後から高度成長期あたりの三世代同居の世田谷一軒家、
という「時を止めたい時代や人々の在り方」や、
高度成長期、第二次ベビーブームのたくさんいた子どもたちの、
未来は明るくて科学がつくる、
という時を止めたい欲望が、
サザエさん時空やドラえもん時空をキープしている。
時が進むのは、ときに残酷である。
だからそれを永遠に止めたい。
人生は無限に上り坂ではない。
いつか下ることもある。
永遠に上れる物語はない。
だから、物語とは、
アップダウンある人生の、
一番美味しい上り坂を切り取ったものだ。
波平が先に逝って舟がボケたりしないし、
サザエとマスオが別居することはないし、
ワカメが中学でグレたりやりまんになることはない。
のび太が中学生で童貞を捨てたり、
出来杉くんが省庁に入って心を病んだり、
しずかが別の人と付き合って、
みんなが二度と会わなくなることもない。
時は止まっているという安心感こそが、
サザエさん時空やドラえもん時空を、
維持する力である。
オバQには、続きがある。
正太が大人になった姿を描く「劇画版オバQ」だ。
ドラえもん時空が進んだら、
という過程で物語を進めるが、
人生の下り坂を描いてせつなかった。
物語は、だから、一過性の娯楽である。
始めから終わりまで味わったら、
二度と戻ってこなくていいのだ。
そのポジティブな変化さえ心に刻み、
人生の励みになれば、それで役割は終わりだ。
もちろん、何回リピートしても構わない。
だけど変化が必ずある。
ドラマ「風魔の小次郎」は、
まごうことなき物語の傑作だが、
かなりの変化を味わうことになる。
だから四話までで鑑賞を止める、
なんなら二話まで、というファンの見方があるそうだ。
それは、次々に死人が出てゆき、
最初の頃の「みんな揃ってる感じ」が、
消えていくからだ。
その代わりそれは主人公小次郎の成長になるのだが、
最初の頃の時を止めたいあまり、
その変化を拒否して、
変化する以前までを鑑賞する、
ないし、死ななかった世界線のメイキングだけを見る、
という見方がある。
ドラマ(=変化)は面白いのだが、変化の寂しさを味わいたくない、
という考え方だ。
これはたとえば、
神7が卒業する前のAKB48のライブDVDを、
延々見たりすることと同じ欲望であろう。
この、幸せだった一瞬を、
永遠に味わっていたいという欲望だ。
さて、
生々流転の感情を、
平安時代は「もののあはれ」といった。
祇園精舎の鐘の声である。
この、もののあはれと逆の感情、
「時を止めたい」は、
強力な動機になるということである。
おばさんが若作りしたい、とざっくりまとめてもいい。
この感情は強烈な動機を生む。
敵が老人である物語が多いのも、
この感情を利用してるわけだね。
個人で言えば「死にたくない」という強烈な感情が、
人々や場、時代みたいなものに拡大した感情、
ともいえようか。
「この部活を守る」なんてのも、これに近い感情だろう。
ネガティブにも、ポジティブにも使える。
「なんで付き合い始めのような、イチャラブが出来ないの?」
というのはよくある恋愛の感情である。
物語の強烈な動機に使えることは覚えておくとよい。
ただしこの寂寞に飲まれないようにね。
「エースをねらえ!」の作者は宗方仁の死が耐えられず、
出家してしまったからなあ。
原作「デビルマン」のラストは、強烈な変化が描かれていて、
これを超える強烈さにはまだ会っていない。
「時を止めたい」ことと、真逆の感情であろう。
作者永井豪は、これに取り憑かれてしばらく描けなかったそうだ。
そりゃそうやろ。
物語とは変化である。
その真逆に、時を止めたいという欲望がある。
ちなみに、以下のようなツイートをみかけた。
> 女の描く「風魔の小次郎」のキャラが二頭身できゃいきゃいいう何にも面白くないイラストがそこらに蔓延してウザいなあ思うてたのが80年頃よな。いまだに薄い本なんか面白くもなんともないと思ってる。
これは、変化の側から見た、
「時を止めたい」だね。
ものすごく大雑把にいうと、
男は変化を求めて、女は時を止めたがる。
大雑把すぎるけど、巨視的に見ると大体合ってる。
あるいは、
求める変化量が、男の方がダイナミックで、
女の方が日常の微細な変化なのかも知れない。
2023年05月22日
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今年もこのブログを読んで脚本の勉強をしていきたいと思います。
ところで一点気になりましたので質問させてください。
>だから四話までで鑑賞を止める、
なんなら二話まで、というファンの見方があるそうだ。
それは、次々に死人が出てゆき、
最初の頃の「みんな揃ってる感じ」が、
消えていくからだ。
大岡監督はファンのこのような鑑賞の仕方についてどう思われますか?
自作品に対する意見でも、他人の作品に対する意見でもいいのでコメント頂けると嬉しいです。
自分は傲慢かもしれませんが、変化を描いた作品ならこういう鑑賞の仕方よりも、通しで見て欲しいなぁとか思っちゃいます。
(最初からサザエさん時空の作品は別として)
「見方は自由」だと思います。
このケースは、
基本最後まで見た人があえてそこを見てるだけで、
「思い出に浸ってる」だと思われます。
「初期○○はよかった」という言葉自体は、
どこででも聞かれるし、
第一印象というのは強いものです。
で、この力は無くならない前提で、
こちらから何を提供できるか、
だと思いますね。