加速する物語はとても面白い。
それってどういうことだろう?
私たちの体内時計よりも、
展開が速かったときに、
その加速感を感じるはずである。
体内時計は一定のリズムだろうか?
たぶん違うと思う。
安静にしている心拍数があったとしても、
最初から飛ばしたらあがって、
それがベースの心拍になるし、
最初がゆっくりならそれがベースになる。
だからゆっくりから入って、
どんどん速くすれば加速感があるし、
速いのから入って落とせば、
減速感があるだろう。
これは、リードに似ている。
男子なら経験があると思うが、
女子がヒールを履いてきて、
全然自分より遅い時に、
相手のペースに合わせることを思い出すとよい。
あるいは、自分より小さな犬を散歩させるときでも良い。
小さき者をリードする時、
相手のペースを見て、それに合わせるのが原則だ。
無理なペースなら死んじゃうし。
しかし、そのペースを守ることが正義か?
向こうが走りたいな、と思ったら、
走らせてあげるのもリードなんだよね。
向こうが休みたいな、と思ったら、
休ませてあげるのもリードなんだよね。
向こうが物足りないなと思ったら、
加速するのもリードだ。
50を終始キープすることがリードではない。
80、100、30、10なんかをぶっこんで、
ペースチェンジを楽しませることが、リードだ。
僕はドラマーじゃないから分からないが、
たぶんドラマーも同じことを考えていると思う。
オーディエンスの心拍数を、
どう上げ下げするかを考えていると思う。
だから、
加速感をつくるときは、
リードしてるか?が大事なんだよ。
単に展開を速くすればいいというものではない。
速くなったはいいが、
アッサリでつまらなかった、ってこともあるんだよ。
その感覚はどうやったらわかるか?
その感覚を感じながら名作を見るしかない。
名作を死ぬほど楽しんだあと、
展開のペースチェンジを学ぶしかない。
加速してるぞ、というときはどういうときか?
どれくらいの加速感覚か?
減速したときはどうしてるか?
再び加速する時はどうしてるか?
なんてことを観察しておくんだ。
単に加速していくだけだと、
そのうち壊れる。
ドラゴンボールの青天井は、
サイヤ人編で一旦終わりだし、
そのあとのセルフリーザで立て直したが、
ブウはどうしようもなかった。
チェンジペースに、ブウで失敗したわけだ。
(もっとも、鳥山明自身はピッコロあたりで限界を感じてたから、
そのあとよくあそこまで持ったものだ。
まあ本人も壊れたんだろうが)
車田正美も「なにい?」で加速していく達人だったが、
たとえば原作風魔では反乱篇で大減速したし、
原作星矢ではポセイドン編で大減速だった。
アクセル踏みっぱなしは若さの特権だけど、
激突して壊れるか、
ブレーキ踏んでダメかの二択なんだよな。
それよりも、アクセルブレーキを巧みにつかって、
ラストまでスリリングに駆け抜けることが、
シナリオに求められることなんだよね。
加速はよい。
しかし加速には限界があり、
リミットで壊れる。
どこまでを加速して、どこで止めるか、
そして一旦スローバラードにして、また加速して、
一旦休憩して考えさせて、
徐々に加速していって…
みたいな、チェンジペースの計画が重要だ。
横軸に時間、
縦軸に盛り上がりなんかをよくグラフにするけど、
この「盛り上がり」は、加速度なんじゃないかと僕は考える。
ポジティブをプラス、ネガティブをマイナスにとったり、
ストーリーの進展をとって右肩上がりにしたりするが、
それはイマイチ直感と反するグラフになる。
加速度を縦軸にすると、わかりやすくなるのでは?
また下ネタになるが、
SEXのピストン運動だと思えば良い。
加速し続けたらおしまいだし、
チェンジペースをうまくやるべきだし、
ラストは死ぬまで加速だよな。
最初から加速するやつは早漏だし、
加速から減速に至った時、
そのスローが楽しめず、
次の加速の予感がないと退屈だ。
SEX、音楽、スポーツ、そしてストーリー。
リズムのあるものは共通の原則があると思う。
それは受け手が人間だからだろう。
2023年05月31日
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