ざっくりいうと、
二つの話はダブル主人公ではありません。
イマジナリーフレンド型ではないかと思いました。
主人公が一人いて、
この場合、小鉄とケンタだと思われますが、
その子供一人では事態を解決できないため、
その人よりも能力を持った大人が、
力を貸してくれて、
問題を突破する、
という形が共通しています。
なぜ大人はその子供を助けるのでしょう?
行きがかり上の親切?
「お前、気にいった」がなく、
単なる親切?
ギン、黒野とも、
事情を内面に抱えながら、
なぜ子供に合わせてあげるのだろう?
そこがぼかされてる感じがします。
ギンは片腕を消毒してくれたこと、
黒野はスワンと勘違いされたこと、
という小さな出会いはありますが、
それと自分のコストをかけることに、
見合ってるとは思えないです。
せいぜい酔拳の何手かを教えるか、
ヒーローショーによぶ、くらいで終わるのではないかと。
そんなガッツリ自分のものを与えるかなあ。
我々観客は、
子供の立場からしたら「ありがてえ」と思うけど、
大人の立場からしたら「なんでや」と思い、
「まあ、ご都合か」と納得せざるを得ないわけです。
ここにメアリースーがいるわけです。
北斗の拳のケンシロウは、バットやリンを助けたけど、
別に二人と旅を続けなくてもいいと思います。
でも続けるのはなぜ?
少年漫画を読む読者の都合ですよね。
実際いたら足手まといだし、飯の確保も大変だし。
そこが少年漫画のご都合主義です。
メアリースーは、
努力せずに自分が構われたくて、
全能感を味わいたい気持ちの表れです。
子供の母親への依存心のようなものです。
この場合は父親的なものへの甘えでしょうか。
母親に甘える段階は過ぎて、
小学校中学年から中学生前半くらいまでの、
母親に反抗して父親に依存して、
さらに「外の世界の父親的な人」に甘える段階です。
それが、小鉄にもケンタにもあります。
これが大人主人公だったら、
作者の未熟としか言えないですが、
少年主人公な考えではギリありでしょう。
しかし映画は全世代が見るものです。
大人の物語が不足しています。
なのでこれは、
メアリースーの一変形、
「父親的な人格が、自分を引き上げてくれる」
という、
いわばイマジナリーフレンドの変形だといえます。
(本来イマジナリーフレンドは、
同い年のことが多いけど、
この場合のイマジナリーフレンドは父親型という例)
この父親的な人物は、
すなわち子供主人公の願望であると。
たとえば、
「あーいつか空からアイドルが降ってこねえかなあ」
くらい分かりやすい甘えなら、
それはメアリースーだと指摘できます。
しかし今回はより複雑な、
一応は人格を持った父親的イマジナリーフレンドが、
出てきているということです。
イマジナリーなので、
子供から見た都合の良さしか持っていません。
一面的人格であり、
多面的人格を持っていません。
具体的にいうと、
二人は仲良くなるけど、
お互いのここが気に食わねえからといって喧嘩しません。
あるいは、もういいやと思って会おうとしない、
みたいなこともありません。
ただただ良好な関係しかないことが、
甘えた理想を描いているだけに見えます。
これは、ある種のBLだと考えます。
BL本を研究すると、
「こうであればいいのに」という状態を、
延々と描いていて、
とくにストーリー(問題と解決の軸と、
不足を冒険で埋める、結果としての変化や成長)
はありません。
これはおそらく、
イマジナリーフレンドと話している状態ではないか、
と僕は考えています。
BLはシチュを大事にします。
シチュエーションは点、状態のことであり、
ストーリー、線、変化のことではありません。
BLが欲しいのはストーリーではなくシチュエーションです。
時間変化ではなく、時間停止です。
それは、子供の頃に構われていた状態を続けたい、
という無意識です。
イマジナリーだから、都合の良いキャラクターになります。
嫌だと言ったり不快を感じたり、
その人の都合で別のことをしようとしません。
ただただ主人公に合わせることをしてくれます。
彼の過去や未来の目的があるわけではなく、
今の点での癒しを描くわけです。
なぜBLか、なぜ男女でないか、は、
「女は女を嫌うから」だと思われます。
イマジナリーフレンドな男に癒されたいのだが、
相手が女だと嫉妬するので、
女でない男(ないし中性)が、男に癒される、
というイマジナリーフレンドものが、
BLの根底にいると思います。
もちろん逆もあって、それが百合ものです。
あるいは、男女だと不自然な言動でも、
BLや百合ならば「そういうものだろう」
とリアリティから逃げられる仕組みです。
つまり、恋愛あるいはそれ以前の「かまって」に関する、
ファンタジーがBLや百合だといえます。
BL好きな人は、ガチホモが見るゲイポルノは見ません。
リアリティが欲しいわけじゃないので。
じゃあ何が欲しいのか?という話。
人は大人になるとき、
イマジナリーフレンドを捨てます。
他者と関わる時、他者の都合とバッティングして、
妥協したり喧嘩することがあります。
しかし癒されたいときがあって、
そうした時にイマジナリーフレンドが欲しくなるわけです。
スナックのママ、キャバ嬢、ホストは、
イマジナリーフレンドを演じています。
女の子がクマのぬいぐるみに「きいてきいて」
というものを、人がやっているだけです。
リアルにそれを求めない場合、
創作物=BLや百合に癒しを求めます。
時々「BLは癒し」という発言がありますが、
僕はこのことと考えます。
キャバクラは癒し、スナックは癒し、と同じ意味です。
癒しだから、点=状態=永遠が欲しくて、
ストーリー=線=展開=解決=変化はいらないんです。
ダブル主人公といいながら、
これはダブル主人公ではないな、
と僕は見ました。
メアリースーのような分かりやすいご都合でもない。
じゃあなんだろうと考えると、
「子どもと父親的イマジナリーフレンド」
という形だと思われます。
じゃあ子供の成長は、
「父親から独立して、一人で生きていくこと」
で描けます。
父親の変化はなんでしょう。
寂しいだけで終わらないような工夫が必要ですね。
僕が書き直そうとしたときに、
ケンタと黒野を、実の父子にしたほうがいい、
と思ったのは、
黒野のケンタへの親切を、
他人だとスピードが遅いと思ったからです。
無条件の愛情を注いでいる実の子だからこそ、
その独立話になるなと考えました。
つまり初手を早くして、後半を描けるぞと。
物語とは、
一人から見た都合世界を描くことではありません。
それぞれの一人から見た世界が、
重なり合って混ざって影響しあっていることを、
描くのです。
思い通りにいかない部分を、
思い通りにしたいが為に、
抵抗を乗り越えて解決しなければならないのです。
つまり、
「銀の宝と鉄の宝」も、
「セイントレイヴン」も、
実はまだ一人称の、一人の願望の世界にすぎず、
三人称の、複数の人格が蠢く世界になっていないのです。
この「ダブル主人公」とは、
主人公とスタンドにすぎないのです。
つまり結局一人なのです。
本来のダブル主人公は、
異なる人格のぶつかり合いで、
互いの変化のしあいを描くものです。
ものすごくよく出来たダブル主人公のシナリオに、
「アフリカの女王」というラブストーリーがあります。
古典なので単純ですが、勉強になります。
ダブル主人公は、この場合形式にすぎません。
中身がダブル主人公にはなってないということです。
「僕はダブル主人公しか書けず、
一人の主人公のものが書けません」という悩みは、
つまりは複数の人格のぶつかり合いを書くことが出来ない、
という根本的な弱点になるわけです。
たとえば、
桜木花道と流川楓はダブル主人公になりえるかな?
僕は無理だと考えています。
二人は無視しあってるだけで、絡みがないからです。
一旦共闘してからも変化がありませんでした。
井上雄彦は、ダブル主人公を描くのが下手です。
バカボンドの武蔵と小次郎もまだ出会ってないし、
リアルの野々宮と外川も全然絡まない。
影響を与え合い、反発しあうことが人のうねりです。
ベルセルクのガッツとグリフィスは、
あるところまではダブル主人公になり得たけど、
蝕以降はガッツ単独になってしまいました。
受肉してからのグリフィスが、
全然面白くないんだよね。時間が止まってるからだよな。
ダブル主人公は、形式でなく中身です。
もう一人の主人公が「主人公の残りの部分」では、
単なるシャドウ、イマジナリーフレンドです。
(たとえばピンポンは、イマジナリーフレンドに見えます)
対照的であることは望ましいけれど、
裏の人格ではなく、
全く別の人格でなければ、他人ではありません。
「ヒカルの碁」の佐為は、
イマジナリーフレンドでした。
だからそれが消えてからのヒカルの話は、
あまり面白くなかったんです。
イマジナリーフレンドからの独立が、
物語としてなかったからです。
のび太に対するドラえもんは、
イマジナリーフレンドだと思います。
のび太は子供なので、
たくさん失敗して、毎回甘えるべきでしょう。
だけどそのままじゃ永久に大人になれないので、
劇場版がそれを補完します。
あるいは事実上の最終回、
「さようならドラえもん」で、
イマジナリーフレンドであるドラえもんとの決別がありました。
だけど世間は、イマジナリーフレンドの存在する、
サザエさん時空を選んだわけです。
ホストが儲かり続ける原理です。
さて、
じゃあ、
「俺はイマジナリーフレンドから脱しきれていない未熟者で、
他者のぶつかり合いを書く脚本に向いてないのだー!
成長しなければー!」
と絶望して終わりかというと、
そうでもありません。
「私を書くのではない」が脚本でした。
「私はそうだが、
そうでない人々を描く」
をやっても良いのです。
というか、やるべきです。
作者と主人公や登場人物たちは、
分離すればいいだけのことで、
分離してないことが問題だ、
というのが批判の主旨なのです。
分離するには自覚しかないでしょう。
多くの精神病の治療は、
自覚による自力回復です。
心は自覚によって変形していきます。
ここは、創作者として今後やっていくうえで、
避けられない問題なので、
まじめに深く議論しました。
本人は甘えたメアリースーでも、
なんら責められません。
創作物がそうでなければいいだけです。
ここは創作物を批評して改善する場であり、
スナックやキャバクラのようにヨシヨシしたり、
精神を鍛え直せーという場でもありません。
本人の人格と、作品は別です。
(あえて本人が甘えられないジャンルを書くことで、
自分と切り離す手があります。
全然違うジャンルを書いてみるのは短編でもおすすめです。
たとえば登場人物が絶望しかしていないダークファンタジーや、
数学者や物理学者のような変人を描くとか、
恋愛ものを書いてみるとかです。
今回の2本はどちらも少年漫画のようでしたが、
ドラえもんと同時に藤子不二雄Fはすこし不思議シリーズや、
エスパー魔美を描いてたわけで、
不可能ではないと考えます)
ということで、
そろそろ書くかな。
書き直したものがダブル主人公になるかは、
僕の腕次第ですが…
2023年05月16日
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メアリースーには陥らないようにと意識していたのですが、イマジナリーフレンド型という亜種に捕まってしまっていたとは……!
実はここ数年間ずっと漫画雑誌の編集者さんと少年漫画を描いていたので、ご指摘に少し驚きました。
手癖でそのまま脚本のストーリーも作ってしまっていたようです。まだまだ手数が少ない証拠で、修行が足りないなと自覚させられました。
アフリカの女王、調べてみます!