2023年06月11日

中盤がぶつ切れにならないために

どうしても中盤というのはぶつ切れになってしまう。
それを防ぐにはどうしたらいいだろうか。


僕は、メリハリを逆につけて、
切るべきところを明確に分けることだ、
と考えている。

ぶつ切れが怖くて、
すべてをつなげようとすること自体に、
無理があるということだ。


どんな話でも、
間に一休みするものである。
逆に、休みのない話は集中力が持たない。
面白い話のテンポというのは、
集中して面白い→一息ついて別のことを考える
→また集中して面白い
というのの繰り返しじゃないか、
と考えている。

ずっと集中力が続くものがない、
という仮説に基づくと、
じゃあ「どこで切るとぶつ切れにならず、
良いテンポになるのか」ということだろう。

ざっくり15分おき、
という経験則がある。
15分は継続して集中させて、
一回話を閉じて、
次の話を始めるとよい、
という経験則だ。
つまり、15分置きにぶつ切れポイントがあれば、
とくにぶつ切れを感じない、
ということである。

これはあくまで形式的なことからで、
内容的なことから考えよう。

ぶつ切れの最大の問題は、
思ったより展開しないのに、
次にぶつっと切れて進んでしまうことである。
つまり、集中力を発揮するほど面白くなくなって、困った末に次のトピックに進んでしまうこと、
それを繰り返すことが、
ぶつ切れの原因だ。
15分置きの経験則からすると、
15分も持つようなストーリーラインをもってきてなくて、
たとえば5分で次のエピソードへ行ってしまい、
また3分で次のエピソードへ行ってしまい、
また3分で……
となってしまうということだ。
これはぶつ切れ感があるよね。

ぶつ切れの反対は、
だから、
「15分続く集中力のある、
小ストーリーライン」ということだ。
一定量のボリュームで集中させて、
それが一端落ち着いてから、
ほーっと休んで、
それからまた集中せざるを得ないようにする、
というリズムをつくるべきなのだ。

その集中力とはなんだろうか?
危険である。

結局、
ストーリーの集中力を増すのは危険だ。
ある危険Aがあって、
それを取り除き、
ある一定の安全になるまでが、
一本のエピソードになっているといいわけだ。

たとえば、
「崖からぶら下がって落ちそう」というよくあるシチュエーションを考えようか。

この危険を突破するのに、15分もかかるまい。
数分で終わってしまうだろう。
次の危険につなげばどうなるだろうか?
ぶつ切れになると思う。

ということは、15分持つ程度の危険、
15分で解決する程度の危険の、
規模を見極めることが大事だということになる。

ここで、短編の経験が生きる。

長編とは、短編の集合体である。
完全な和ではなくて、
重なりあいながら、関連しあいながらだけど、
その一単位は短編なのだ。
だから僕は短編を書け、という話をしている。

車庫入れ感覚というか、
「ああ、これくらいならこれくらいの尺で決着がつくな」
という感覚は、
沢山書いて、経験を積まないと分らないと思う。

で、
もし仮に崖からぶら下がって危ない、
という危険があるとしたら、
15分で納めるためには、
実はお前が好きだったんだ、という告白をしている途中、
などのように、話を複雑化させるといいのだ。
そうすると、焦点が崖から落ちそう、
だけでなく、
別の焦点が同時進行することになる。
まあまずは命が助かることが最優先だとしても、
崖から助かる→告白する、
という二段階ではなくて、
同時進行しているから面白くなるだろう。

このようにして、
15分持つように、
問題(危険)を適切な規模に調整すると、
危険がセットアップされる、
危険を工夫して突破しようとする、
(途中でアクシデントなどがある)、
解決する、
という集中→弛緩、
というテンポが生まれやすい、ということだ。

これらをうまく並べると、
ぶつ切れ感はなくなるだろうか?
実はまだ足りない。
ある危険Aがあった15分の次に、
同程度の危険Bの15分が来ても、
人は退屈するんだよね。
「それさっき見た」と。
同じでないにしても、同じようなものを見た気分になってしまう。
だからループしている感覚になり、退屈するのだ。

危険は釣り上がるべきである。
どんどん危険になっていくから、
人は緊張を保つことができるのだ。


ぶつ切れになっていると思うのは、
だから、
こうした計算ができていないか、
それが機能していないということだ。

そもそも計算していないなら、そうするようにせよ。
機能していないなら、下手なだけだから、
もっとつなぎをうまくするか、
危険のつり上げ具合を調整するか、
語り口を工夫するかせよ。


その感覚はとても大事だ。
自分が観客として、
「ああー、ここちょっと退屈してきたな」と思う感覚は、
観客のそれと一致しなければならない。
それをごまかして進めても、
その予感は当たってしまう。
自分が観客として退屈を覚えるならば、
退屈を覚えないように、
危険を吊り上げたり、15分持つような、
集中力が必要なストーリーラインを創作するべきだ。


そして経験的に15分とは言ったものの、
この基準は、
脚本家によってさまざまであり、
それが作風というか、テンポ感になっていると思うよ。
それは、映画をどのようなリズムで見ているか、
ということと関係する。
良き観客であれ、
というのは、この観客として正しいテンポで見ているか、
ということも含む。
posted by おおおかとしひこ at 02:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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