「このタイトルはこういう意味だったのか……!」
って伏線回収される作品っていいよね。
どうやったら仕込めるか、考えよう。
まずそれが全然意味が分らない場合は、
暗号みたいなものだ。
だからそれは最後にそうだと回収されれば、
まあいいかもしれない。
でもそれだとそもそも引きのないタイトルだから、
あんまりおもしろくはない。
理想は、
最初はこういう意味と思ったタイトルなのに、
ラストにはまったく意味が変わっていた、
という感じのものだ。
そういう感じのものを最近書いたのだが、
ネタバレになってしまうから、
ここじゃまだ言えないのが惜しいな。
最初はAという引きで見始めるが、
最後まで見終えると、
Bという意味が込められていることが分かって、
なるほど、
と思うタイトルが理想、ということだ。
ここで気を付けるべきことは、
ダジャレじゃだめ、ということ。
最初はAという言葉が、
Bというダジャレで、
ダブルミーニングだったんですよ、
ってなるやつはたいてい寒いからね。
僕はダジャレを認めていないのは、
それをやると「やった気になる」ことが一番よくないからだ。
実はほとんど何もしていないのに、
やった気になって、それ以上追及しなくなることが、問題だ。
ダジャレを禁止したら、
深いところで二重の意味をつくることを考えないといけない。
ダジャレはその辛さの安易な出口になってしまう。
だからダジャレによるダブルミーニングは禁止しよう。
ドラマ「風魔の小次郎」は、
一応それを込めたものになっている。
Aとしては、
原作漫画「風魔の小次郎」の実写化である、
という意味、
「風魔忍者のはねっかえり者小次郎」の意味である。
まあそのまんまだよね。
ところが、ストーリーはそれより深く、
小次郎が忍者としてのアイデンティティを決め切れなくて、
それが風魔として生きることを決意する、
という大きな流れになっている。
それをあんちゃんが「風魔の小次郎」と呼ぶことで、
彼のアイデンティティーBは確定するのだ。
実写ドラマの「風魔の小次郎」は、
所属上は風魔にいる小次郎Aだが、
真の意味での風魔の小次郎Bになる話、
という意味になっている。
風魔であることは、仲間を失い、
自分の命も失う危険を受け入れるということだ。
何の為かを理解して、死んだ者たちも受け継ぐ覚悟があるということだ。
小次郎は里から出てきて、そのことを学び、
成長した。
だから、風魔の小次郎に、彼はなる。
「風魔の小次郎」は、
だから見終えた時には、意味が変わっている。
小次郎はほんとうに風魔の小次郎になったんだなあ、
という感じにだ。
このように、
一見引きのような要素のタイトルにさえ、
あとで「こういう意味だったのか」と認められるような、
二重の意味をかぶせることが出来る。
漫画「タッチ」のタイトルの意味は、
和也の思いを継いで、克也が甲子園に行くという、
「バトンタッチ」の意味であったが、
アニメ化にあたって、
「心に触れる」という意味のタッチを含ませた。
このことにより、
タイトルが二重の意味を持ち、
より深くなったと思う。
こうした二重化の例もあるので、
参考にされたい。
つまりは、
最初に一回タイトルの意味を解説するようなことを前振って置き、
ストーリーの後半に、
それはほんとうはこういう意味であったのだ、
と分るような仕掛けになっていると、
それが出来るだろう。
まさに、
同じものなのに、
文脈で見え方が変わって来る、
モンタージュ理論そのものではないか。
つまりタイトルの理想は、
同じものなのに前と後で意味が変わって来るようなもの、
という、モンタージュ理論になるようなものがベストということだ。
実際は違うカットらしいのだが、
「ゴーンガール」の最初と最後のカットは、
妻の微笑みである。
これは同じ(ような)カットなのに、
前と後ではまったく違う意味として見えるように、
内容がつくられている。
同じカットを使わず、カットを変えた意図は良く分らない。
モンタージュ理論をフィンチャーが知らない筈はないんだがね……。
それはまあよいとして、
そのように出来るタイトルが、
一番優秀なタイトルだと僕は思うがなあ。
引きと、本質の、
両方が込められているもの。
本質のほうは最初は分らないが、
見終えたあとにはその本質しかみえないもの。
ひとつのものでも、
見る方向でまったく違うように見えるもの。
そういうものが理想だ。
2023年06月27日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック