このことを覚悟できない人は、
そもそも表現をする資格がないと思う。
まず人に見られるためには、
長い表現では無理だ。
ズバリと切り込む、短い表現がいる。
しかし短いゆえに舌足らずであることはしょうがない。
だから誤解が生まれる余地がどうしても出てくる。
誤解が生まれないように、
正確に表現するには、
説明を長くしなければならない。
しかしそれは長すぎて誰も見ない。
そもそも興味がないものは、見る体力がない。
世の中には、
正確に長くしたものも必要だが
(取扱説明書とか、六法全書)、
それは表現として求められているものではない。
表現として求められているのは、
短くスパッと切れ味の良い、
心地よい表現だ。
だからすぐに見ることができて、
好きになるのだ。
しかし短いものは誤解を生む。以下ループである。
二つのやり方がある。
短いものを用意して、
断言を避けて、
長いものへ誘導する方法。
でも誘導した先で挫折されては、
元の木阿弥だ。
つづきはWebでをやっても、
そこまで到達しない人も多数いる。
だから最善ではない。
もう一つのやり方は、
誤解を覚悟して心を動かすことに割り切ることだ。
つまり、
多少真実と違っても、
表現としての完成度をあげて、
完璧なものをつくることである。
かつてのCMは後者だった。
優良誤認が起こればそれで良しと考えた。
でもネットのクレームが発達して、
キレの良い短い表現を恐れ、
注意書きばかりのものになってしまった。
だから、誰も付き合ってくれない。
こうしてテレビは凋落をはじめ、
今や注意書きだらけのものには何の魅力もない。
あなたは、
表現者としてどちらを選択するか?
正しいものが正しいように伝わらないとダメか?
誤解されたまま生きていくか?
僕は後者を取る。
とんでもない事故につながるのは良くないけど、
一目惚れをどうやって作るかが表現だと思う。
2023年06月29日
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