2023年07月12日

VR/AR空間では手を見ると安心する

という法則があるらしい。
これは「体験への没入」を考える上で重要な示唆だ。


どういうことかというと、
仮にVR空間でモンスターのスキンを被るとしよう。
多少体も大きくなり、
町や人は少しスケールダウンすると思う。
この時、
視界に自分の体の一部が入るか入らないかで、
身体感覚がまるで変わるのだそうだ。

アプリオリに考えれば、
視覚情報、つまり目に入った、
街のモデルや人のモデル、
それとのリアクション関係があれば、
「空間に没入」していると考えられる。
ヘッドセットに加速度センサーをつけ、
頭の向きにきちんと風景が変わり、
立体音響があり、
なんなら風や匂いもつければ、
「世界に没入できる」と。

ところがそれは素人考えだそうだ。

効果的なのは、
自分の手にもセンサーをつけて、
手が視界の隅に入った時に、
手のモデルをVR空間内にも表示することらしい。
その手は人間の手である必要はなく、
この場合怪物のスキンでよいだろう。
どんな手があるかではなく、
手が見えることが必要だそうだ。

どういうことかというと、
人間は、手を動かして、視界に入る入らないの領域を見て、
体感と視覚のキャリブレーションをしているのだそうだ。
つまり、
視覚や聴覚のインプットだけでは世界の把握に不十分で、
触覚、つまりこちらからアクションしたものが、
世界でどう見えているかのリアクションを見て、
その体感でインプットを調整するらしい。

なるほど、
目が悪い人がメガネをかけてなくても、
自分の部屋程度なら手探りでいけたり、
聴覚障害者が舌打ち音を出して、
その反響を聞いて空間を把握する
(コウモリと同じ原理)ことに、
とても似ているね。

つまり、
「この世界に私がいる」感覚とは、
センサーの単器官で測られるのではなく、
各センサーから来たアクションリアクションの感覚を
「統合する時の感覚」で、
得られるということだ。
触覚(この場合体がどこにどういうポーズをとっているか、
という身体感覚)と視覚の、
統合時の感覚ということだね。


ちなみに中国武術で、
接近戦をする流派、太極拳や詠春拳では、
目隠ししたまま組み手をする練習がある。

視覚では間に合わない感覚、
体で触れている時の体の位置関係を、
視覚で捉えない感覚を練習する。

この時に大事なのは「立身中正」といって、
体軸を立てたまま感じることらしい。
つまりどこかが不動点になっていて、
そこからの身体感覚で、
位置関係や自分の体がどうなってるかを、
知るようになってるわけだ。

この感覚が鍛えられると、
視覚だけに頼らずに動けるようになる。
柔道やレスリングなどでも、
目で見るより相手と接触した部分の相手の動きで、
相手の意図や姿勢を知ったりできるので、
同じことをやってるわけ。

つまり、
身体感覚に視覚はそれほど重要ではない、
というのが身体を極めた人たちの意見である。



これを知らない人が、
VRはヘッドセットや触覚センサーなどの、
各部位をインプットのみすればいいと、
誤って理解しているのだ。

「視界に手を入れたほうが、没入感が高まる」
のは、2Dゲームでも行われていて、
レースゲームではハンドルがあるし、
FPSゲームでは必ず手と銃が出ている。
これなし、つまり完全主観では、
距離感が測りづらいのだろう。
距離感が測りづらい=没入してないわけだね。

これが3D空間でも必要だ、
なぜなら身体感覚をVR空間に持っていくからだ、
ということが、
ようやく発見されたようなのだ。





さて、物語である。

このことと同じことをしないと、
他人ごとの世界に見えてしまい、
没入できなくなるということ。

逆に、体験に没入させたければ、
「手を視界に入れろ」ということだ。

これは「フレーム内に手を写せ」という馬鹿なことを意味しない。

「我々の世界とこの世界は同じだということの、
つながりをつくれ」だと思われる。

たとえば、
綺麗事だらけの世界があったら、
うんこや掃除を描くと良い。
汚物が集まってどこへ行くのかを示せば、
ただ綺麗な世界は嘘だけど、
これは本当っぽいことがわかるだろう。


これは感情移入のコツでもあった。
まるで自分と違う人に、
自分と似たところを見つけると、
人はその人に実在感を感じる。
これは点でなく線で示すのがシナリオであった。

たとえば「好きなファッションをしている」
は感情移入ではない。
感情移入とは、たとえば、
「観客が笑ってしまったギャグで思わずそのキャラも笑う」とか、
「困った人を見ると損だとわかってても助けてしまう」とか、
「誤解されたまま批判されてる」とかだ。

具体的なことでなくて、
抽象的なエピソードで示される構造が、
「手を視界に入れる」ことと同じ役割を果たしている。



つまり、
「私はこの世界にどうやったら入れるだろうか」を、
(無意識に)試しながら見ている、
というわけ。

序盤でざわついている観客というのは、
単純に集中していないのではなく、
「私はこの世界に入れるほど、
この世界は信用に足るのか」を、
試しながら入っているんだと思う。
そしてそれが気に入れば、
ずっとその世界を愛すると思うよ。

猫がヒゲで箱に触れて、
その箱に収まるような感じか。
そのヒゲに当たるものが、
身体感覚と目の端にいる手ということだろう。



つまり、
脚本において、
序盤を削ることはリライトのセオリーであるが、
手やヒゲに当たる部分を削ると、
没入してくれなくなる、
ということなんだよね。

必要な助走というのがある、
ということだろうか。

ここまで計算できて、
はじめて序盤のリライトは完成だと思う。

もっとも、
計算ではなく、
感覚で感じるものだから、
他人の用意した世界だとして、
と想像しながらチェックする感覚の方が、
重要になるかもしれない。

壁を叩いて、足で踏んで、
ものを持ってみて、
はじめてこの世界が入るに足る信用できそうなもの、
とわかるのではなかろうか。
posted by おおおかとしひこ at 06:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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