2023年08月11日

理解していることしか表現できない

偶然表現できてしまうこともなくもないが、
基本は、あなたの理解を表現が越えることはない。


たとえば男性作家の女性に対する理解度。
女性作家の男性に対する理解度。
これはかなり個人的に差があり、
作者の理解が限界である。

科学知識も個人によってかなり差がある。
人間関係とはこういうものだ、とか、
社会とはこういうものだ、
という理解も差が出る部分だ。
(出身によっても差がかなり出るね)

つまり、
〇〇とはこういうものだ、という理解が、
人によってばらつきやムラがあり、
それがうっかりそのまま出てくる、というわけだ。

だから、これから書くことについて調べることは、
その理解の限界を超えることでもある。

自分の理解が甘かったら、
書くことも間違っているか、相当ピントがずれたものを書いていることになるからね。
(ただし、無知だったことが功を奏することもなくもない。
キャプテン翼を描いた高橋陽一はサッカーを知らなかったことで有名だ。
「誰も知らないことは無茶できる」例である。
今はネットが発達しているから、
こうした無茶もなくなってしまったなあ……)

つまり、
調べものとは、自分が理解するためにする。

相対性理論について書きたいならば、
ある程度数式を解ける程度は理解したいものだ。
(大学数学レベルが必要です)
知らないスポーツについて書くならば、
そのことを理解して書きたいものだ。
どれくらいのスピードが出るのかとか、
どれくらいの衝撃があるのかとかの、数値的なことも知っておくといいよね。
「そんなすごいの?」って驚くならば、
その驚きは必ず他の人も知らない、
すごい部分ってことになるからね。

つまり、自分が理解したことをうまくかいつまんで話すと、
それだけで話になるんだよね。
極論その中に人間ドラマを織り込むだけで、
ストーリーになってしまう、ともいえる。

自分が理解できていないことは、逆に適当になってしまう。
それは、マスに向けたものである以上、
詳しい誰かから失望されるということである。
多くの人がリアリティを持っているピアノの演奏シーンなどは、
詳しい人は必ず突っ込むだろうからね。
(弓道警察も一時期あったなあ)

絵的な表現だけでなく、
原理的なものとか、それを扱う人がどう考えているかとか、
なんでそれがあるのかとか、
そういう「理解」に関わることは、
すべて理解しておくことだ。

そうすると、それをうまく解説するだけで楽しいだろう。
もちろん、ストーリーがおざなりになり、
解説がメインになってしまっては本末転倒だが。

たとえば料理漫画が料理の解説がメインになってしまって、
人間ドラマがおろそかになることはよくあることだ。
それは漫画としては詰まらないんだよな。
蘊蓄集として生き残る手もあるんだが、
美味しんぼが急速に詰まらなくなっていったのは、
人間ドラマが単純だとバレたからかもしれないね。


ということで、
理解しよう。

理解していないことは書かないことだ。

理解するために、調べよう。
その理解を利用して、新しい物語を創作するのだ。
posted by おおおかとしひこ at 03:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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