偶然表現できてしまうこともなくもないが、
基本は、あなたの理解を表現が越えることはない。
たとえば男性作家の女性に対する理解度。
女性作家の男性に対する理解度。
これはかなり個人的に差があり、
作者の理解が限界である。
科学知識も個人によってかなり差がある。
人間関係とはこういうものだ、とか、
社会とはこういうものだ、
という理解も差が出る部分だ。
(出身によっても差がかなり出るね)
つまり、
〇〇とはこういうものだ、という理解が、
人によってばらつきやムラがあり、
それがうっかりそのまま出てくる、というわけだ。
だから、これから書くことについて調べることは、
その理解の限界を超えることでもある。
自分の理解が甘かったら、
書くことも間違っているか、相当ピントがずれたものを書いていることになるからね。
(ただし、無知だったことが功を奏することもなくもない。
キャプテン翼を描いた高橋陽一はサッカーを知らなかったことで有名だ。
「誰も知らないことは無茶できる」例である。
今はネットが発達しているから、
こうした無茶もなくなってしまったなあ……)
つまり、
調べものとは、自分が理解するためにする。
相対性理論について書きたいならば、
ある程度数式を解ける程度は理解したいものだ。
(大学数学レベルが必要です)
知らないスポーツについて書くならば、
そのことを理解して書きたいものだ。
どれくらいのスピードが出るのかとか、
どれくらいの衝撃があるのかとかの、数値的なことも知っておくといいよね。
「そんなすごいの?」って驚くならば、
その驚きは必ず他の人も知らない、
すごい部分ってことになるからね。
つまり、自分が理解したことをうまくかいつまんで話すと、
それだけで話になるんだよね。
極論その中に人間ドラマを織り込むだけで、
ストーリーになってしまう、ともいえる。
自分が理解できていないことは、逆に適当になってしまう。
それは、マスに向けたものである以上、
詳しい誰かから失望されるということである。
多くの人がリアリティを持っているピアノの演奏シーンなどは、
詳しい人は必ず突っ込むだろうからね。
(弓道警察も一時期あったなあ)
絵的な表現だけでなく、
原理的なものとか、それを扱う人がどう考えているかとか、
なんでそれがあるのかとか、
そういう「理解」に関わることは、
すべて理解しておくことだ。
そうすると、それをうまく解説するだけで楽しいだろう。
もちろん、ストーリーがおざなりになり、
解説がメインになってしまっては本末転倒だが。
たとえば料理漫画が料理の解説がメインになってしまって、
人間ドラマがおろそかになることはよくあることだ。
それは漫画としては詰まらないんだよな。
蘊蓄集として生き残る手もあるんだが、
美味しんぼが急速に詰まらなくなっていったのは、
人間ドラマが単純だとバレたからかもしれないね。
ということで、
理解しよう。
理解していないことは書かないことだ。
理解するために、調べよう。
その理解を利用して、新しい物語を創作するのだ。
2023年08月11日
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